
タイトル:プラダを着た悪魔2
監督:デヴィット・フランケル
形態:映画
既か未か:未
『プラダを着た悪魔2』みた。
前作の『プラダを着た悪魔』は割と最近見た。前作は「結局てめーら奴隷は隷属することに憧れちまうんだろっ!そうじゃない奴は去れ!!」と後頭部を一斗缶で殴ってくるアジャコングのような映画だった。まあこれは誇張でもなんでもなく、職場のボス・ミランダは傲慢そのもの。新卒のアンディは最初こそファッションを小馬鹿にしながら仕事を踏み台と考えてミランダに反発したり泣かされたりする。ミランダが命じることは出版前のハリポタの新作をもってこいとか滅茶苦茶だし、ミランダは割とクソ上司なんだが、アンディは成功して褒められると嬉しい…。という仕事の根源的な魅力を描いていた。まあ、ラストはそんな仕事の誰かを蹴落とす美学にアホらしさを感じたアンディがランウェイ(ファッション誌)を去る感じなので前述の通りだ。
この映画見て、「仕事ってやっぱ楽しい!キラキラ〜」と無垢に言える人のことは積極的に冷笑していきたいところだが、映画の魅力が凄まじいのは事実。現にファッションの歴史を語るミランダはかっこいいし、ランウェイの狂気迫ったプロ精神に憧れてしまう。そしてそれをバチバチに決まったファッションや映画の絵力で「ほら!憧れるだろ??」とぶん殴ってくる。もう冒頭の記述は誇張でもなんでもない。こんな書き方をしているが割と好きな映画だった。
この鑑賞態度が正しいかはわからないが、正直、俺は『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』の女版としか見てないので積極的に乗り切れてるわけでもない。ミランダは女版(そしてギリ合法の)ジョーダン・ベルフォードにしかすぎない。こっちも仕事映画として信奉してる人を度々見るが、彼ら、彼女らが最終的に希求しているのは刑務所なのだろうか。どちらの映画も等しく、「クソ。でも、憧れちまうだろ?」という結構ギリを責めたところが映画的魅力なので手放しに誉めている人を見ると危うい気持ちになる。
ちなみに、男女論的な話をしたくないが、女はみんな好きだよなと言われがちな映画でもある。この対局にあるのが『ダークナイト』。男は『ダークナイト』、女は『プラダを着た悪魔』の話ばっかりする時代が確かにあった。これらはちょっと考えてみると面白いんだが、男女論的ではなくても対称性を持ってる。それはリアリストとロマンチストの対称性だ。ロマンチストは若干アホっぽいのでイデアリストと置換してみる。これが実は男女論と逆の様相を呈していて、イデアリスト映画としてのダークナイトとリアリスト映画のプラダとして理解できる。
ゴッサムシティを救うのは人々の善性だったという完全理想主義的な終わり方をするダークナイトに対し、プラダはミランダが結局コネでなんとかしましたという身も蓋もない現実主義的に終わる。プラダを着た悪魔に漂っているのは結局現実はこんなもんよという身もふたもないリアリズム思想であり、正直、俺の好きな方向の映画ではない。とはいえ、ダークナイトもまた、バッツが全てを背負うというウジウジしたセカイ系の理想主義なので好きではない。(チャンべバッツ自体あんまり)。ただ、方向が違うだけで2作とも面白く見れたのは事実だ。
そんなこんなで「思い出の中でじっとしていてくれ」型にはなってしまうので続編をやると言われてもあんまりピンとこないんだが、まあ見た。
ネタバレあり
前回から20年。アンディ(アン・ハサウェイ)はジャーナリストとして賞を取るほどに成長していた。しかし、授賞式の場で会社からクビを言い渡されてしまう。一方、ランウェイではミランダ(メリル・ストリープ)の発言が炎上、対応に追われていた。ランウェイは時代の変化にのまれ雑誌自体が存続の危機に。そんな中、アンディがランウェイに戻ってくることに。ランウェイを救うことはできるのだろうか。
抽象的に全体の外殻を先に述べると、「アレから数年…。いつか引退の時が来る、だが今日じゃない」というトップ・ガン型の続編映画。久しぶりの続編でできることってこれ以外ないよな。前作は20年も前なので、そういうもんとして扱われてきたあれこれをそのまま扱うことはできん。20年を通じてアップデートされたものとしておくとともにそこに存在する物悲しさも見つめており、割と上手いバランスを保ってはいる。その最たる例がミランダのパワハラ。ミランダが自分でコートをかけたりしているシーンを「当たり前やろw」と見るとともに、前作のミランダを知っているとなんだか、物悲しさも感じてしまう。という構造。
やっぱ映画としての諸々がバシッと決まっているので楽しめました。
ランウェイにコンサルがやってきて(マッキンゼー)、コスト削減を提示されるなど、現代を感じさせるような展開が多い。そしてそれらはまあ別に目新しいとかではないんだが、ちゃんと楽しむことができる。
また、謎のシビアさも健在。今作の解決、金持ちに対抗するためにさらに金持ちを持ってくるというのは、もうほんと、身も蓋もないんだが、リアリスト映画としての冷めた眼差しを感じれて良かった。実際、こうするしかないでっせと言われたら頷くしかない。映画なら理想主義的になんか上手い落とし所を見つけて欲しいところだが、この突き放しっぷりも「プラダ」の魅力なのでいいでしょう。
そして俺が最も楽しんだのは映画とはあんまり関係ないが、ケネス・ブラナーだった。ミランダの新夫役としてキャスティングされたケネス・ブラナー。俺はケネス・ブラナーのことが全然好きじゃない。その理由は何と言っても鼻につくから。一番感じるのはポアロシリーズ。ケネス・ブラナー演じるポアロは役としてではなく、演じるブラナー自身が自分のことを好きで好きでたまらないんやろなあと伝わってくる。そうでもなきゃ、世界的キャラクターを監督兼主演でやらん。
ただ、今作のケネス・ブラナーはめちゃくちゃ良かったですね…。軽薄でアホそうなところが良かった。ハリポタでロックハート役をやってるのも好きなんだが、ケネスのポンコツナルシスト感を自虐的に捉えた役って感じで最高だった。今作では他人の葬式でドヤ顔で楽器を弾いたり、自己啓発本を読んだり(冒頭の数ページしか読んでない!笑)と軽薄ケネスを見せてくれる。そしてミランダに助言を与えるシーンではもうケネスフィーバーが発生しており、うっすい事を言っても、しっかりした事を言っても最高という無敵状態になっていた。もうこれだけで見て良かったと思った。
ミランダ=ランウェイの構図にいまいちノリきれん
欠点としては、あんまりノッていけなかったことですかね。ここが最大にして映画の芯を食ってる部分なので、正直、俺は前作の方が好きだったかも。
本作、もちろん前作もだが、この映画はまずランウェイ=ミランダの構図を前提に話を進めるのでそこにうまくノレない。前作ではナイジェルが言ってくれた「自分より大きなもののために尽くす」という仕事の魅力には頷けるのでかろうじて楽しめたが、今作はミランダ=ランウェイを地で行くのでむずいところがある。俺がなんでそれノレないかっていうと、ミランダ=ランウェイの図式化が前作の時点で若干上手く行ってないからですね。具体的にいうと、例えば、ミランダのためのハリポタをゲッツしに行くところとかは「上様の機嫌取り」という点では仕事に他ならないんだが、それはランウェイと直接の接続性を持たない。つまりミランダの小間使いではあるものの、ランウェイのために働くという感覚が掴みづらいのだ。一応、アンディに虚業と言われてミランダがファッション史を語るシーンとかが補完にあたるし、そこにこっちは喰らいつくんだが、今作ではそういうシーンはないのでちょっときつかった。
だから、俺にとっては中盤でエミリーがランウェイを買収するという展開になった時に、「それで良くね?」と思ってしまった。もちろん、エミリーの夫がAIがどうの言ってるという点でファッションの矜持が危ないと言わせてはいるんだが、一方でエミリーはファッションに興味がないとか、復讐のためだけにランウェイをゲットしようとしているわけではない(はず)。この映画、うまいことやっていくという理想を一切提示しないんすよね。
「だが今日じゃない」は本当に美しいのか
この映画は、ファッション業界の雑誌という沈みゆく船に乗ったミランダたちの振る舞いに焦点が当たる。で、ミランダは、というかアンディがミランダをしがみつかせようとする映画だ。ただ、それがなんとも美しくない。というのも、これまでミランダは切り捨てる側だったわけだからだ。ランウェイのためなら妥協を許さず、多くを切り捨ててきたミランダの仕事人としての矜持だから多くの人が憧れたのだと思うし、その行為がかろうじてランウェイ=ミランダの構図をキープしてたと思う。今作でやっているのは、「じゃあミランダがランウェイから切り捨てられる番になったら?」という話。つまりランウェイにとっての妥協がミランダになった時にどうするかの話で、これはいうまでもなくミランダがランウェイを去るのが矜持に他ならない。
いや、そうじゃない、ミランダはファッションのことをわかってて、ミランダは特別なんですよ〜!というのがこの映画。そしてアンディのスタンス。前作はミランダがファッションについて語る場面やナイジェルの憧れの話、そして画面全体の煌びやかさが上述の通り、「ミランダの特別性」を保っていた。一方で今作はそれがない。ので、ミランダの特別性が感情由来のものにしかなってなくて、部外者の俺とかからしたら、「継承すれば?」とぞ思う。
これ、単純な問題ではないんですよ。「テメェにはファッションがわからねえから言えるんだろ!」と思われるかもしれないが、そしてまあそれはあるかもしれないが、これが映画である以上、見てる人を「わからせ」なくてはならない。音楽に無知な野郎も『ボヘミアン・ラプソディ』のライブエイドで凄みを感じる。フィクションにしても、宇宙すら知らないガキが『スター・ウォーズ』を見て圧倒される。そして他ならぬファッションすら知らんナードをわからせたのが前作『プラダを着た悪魔』だった。さっき言った通り、前作はその「わからせ」が上手かったわけ。構造の問題。そしてそこに厄介な問題が立ち上がってくるんですが、本作は「上手くわからせてはいけない」映画でもあったりする。
というのもファッション業界の斜陽さを軸に置くので、前作みたいに映画全体をバチバチに決めていくと説得力が薄れてしまう。映画全体にしょぼくれた空気感を漂わせる必要があるので、前作のように「わからせ」ることができなかった。その歪みが明らかになったというところでしょう。
ちなみにここまで書いてきたことは前作と今作が続編関係になっているということを考えたら対して欠点でもないのかもしれない。前作でミランダ=ランウェイって散々言ったからもういいでしょ?!といった形で。だから前作にどっぷりハマってる人ならすんなり受け入れることができるだろう。俺のように前作を「志向は違うが面白い」と感じた人間が炙り出されるスタイル。
消えゆかないノスタルジーの都合の良さ
本作、上記の通り、アンディの行動原理もいまいちよくわからなかった。アンディってそんなにミランダのこと好きだったのね。なんとしてでもミランダを守ろうとするアンディのミランダ好き度はわかったんだが、その理由に論理的裏付けが薄い。これもおそらく前作に託されてるので本作を1本の映画として見た時に足りない点だと思う。なんだろう。久しぶりにあったらパワハラ教師も可愛く見えてくるあれに近いのか?俺も同窓会で似たような気持ちにはなった。
この同窓会の例えを書いて気づいたんだが、本作のノスタルジーにしがみつく空気感があんまり好きではないのかも。先述したが、ミランダもそしてナイジェルも沈みかかった船で「これも天命」と足掻かないで欲しいのよ。タイタニック号で演奏を続けたあいつらのように。「私たちの時代も終わりね…」という渋い内容、堕ちゆくものへの鎮魂歌を求めてしまっていた。溺れながらもなんとか足掻くのもそれはもちろん美学なんだが、ミランダたちが信奉してきた美学とは違うのよ。あなたたちは美しく沈むことを美学としてきた側なのよ。そして大勢を沈ませてもきた。溺れたくないなら、そのまま助かろうとするんではなく、道を探せやとも。今作の変なとこは「折衷」がないところ。特にランウェイを残すには折衷という名の「継承」が必要だと思うし、ほとんどの引退映画ってそうなのよ。古き伝統を大切にしながら新しきに繋げる。これもまた美しさだ。ライトニング・マックィーンは引退したよ。インディも。いつまでも引退、もしくは継承しねぇのはトムクルと宮崎駿くらいのもんだ。(駿はカーズの監督に引き際を弁えろとコメントをもらってたりする)。
結構都合いいんすよ。この話。時代は変わるが私たちは特別だからそのまま、「そのまま」で残しておいて欲しい。という話なので。変容しながら時代に合わせて生き抜くことは必ずしもファッションの伝統を捨てることではない。なのにね。
で、もっと踏み込むと、ファッション業界の歴史はブランディングの歴史に近いものでもある(これは浅学だが)。つまりもとより「虚業」ではあるのだ。だが、その中にも美学があり美しいというのが前作での主張だった。その虚を志向する姿勢、そして仕事における個人主義、属人体制がさらなる虚業=コンサル等の効率重視を生み出している。とどのつまりランウェイの斜陽はかなり自業自得なのだ。そんな中で、コンサルを(俺も嫌いだが)短絡的に敵とみなすのはやはり自分達だけを特別扱いしていると読み取れてしまう。この構図は前作でペーペーのアンディがファッションを虚業と貶すのと同じだからだ。
というふうに、もうこれは仕方ないんだが、作品自体が含有している都合の良さを続編という形で炙り出してしまった感じの映画だった。ただ、これ、リアリスト映画としてはかなり点数が高い。現実もこんな感じですから。
各種企業では新陳代謝だの能力主義だのと都合の良いことをのたまいながらも、役員や幹部の座についた人間は自己の利益を最大化することに全力を注ぐ。そしてもちろん引き際など知る気は一切ない。むしろ自信が歳食うまで居座った後はご子息やご令嬢を同じような「貴族」にせんと力を尽くす。この力は個人の持つギフトというよりは"人のつながり"だ。この作品からも彼ら、彼女らからも「自分たちだけは特別に守られたい。たとえ誰かを蹴落としても。ただ、自分たちは蹴落とされたくない」という我儘じみた本音が漏れ出す。
もう貴族なんすよね。金持ちは。今作でもミランダがエコノミーに乗ってびっくりみたいなシーンがあったが、まああなたは貴族ですからね。現代的身分制度だ。俺はこういうのは反吐が出るほど嫌いだが、ただ、前作、本作通して描かれてることは実は一貫しており、そういう意味で映画は評価に値すると思う。つまり身も蓋もないリアリスト映画ってわけ。違う方向を向いてはいるがこういう映画も好き。
そこから考えると前作は「俺たち貧乏人は結局、仕事に尽くしてしまうという隷属性を持ってんだろ?!」というのに対して今作は「金持ちはなんとしてでも貴族の座にしがみつく。その都合の良さは止まることを知らない。」という対称性を持っており、美しさすら感じる。貧乏人としてはやっぱ前作の方が自己批判されてる感じで気持ちいい。今作は見苦しい他人を見てるだけだからな。
まあそんな感じでした。酷評っぽくなってるが好きか嫌いかで言えば、好きな作品に入る。その上で自分の方向を向いていなかったというだけで。こういう作品はちょくちょくある。『ゼロの執行人』とか、『プーと大人になった僕』とか。文章力を上げるチャンスなので大切にしていきたい。
都合のやさに散々言及したが、ナイジェルの都合の良さは好き。都合が良すぎてマジカル〇〇〇みたいになってるがそういうのは好きになってしまう。やっぱプラダは「こういうのがいいんだろ?!」というウォール・ストリート型映画。