
タイトル:ワン・バトル・アフター・アナザー
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
形態:映画
既か未か:既
『ワン・バトル・アフター・アナザー』みた。
昨年度末からブログを始めて本記事がついに50本目。良くぞ頑張ったね、俺。ちなみに書きかけの下書きとかいっぱいあるし、記事数自体にはいっちゃんはじめにかいたMyルール記事とメモ用記事があるので厳密に考えるのはやめる。
本作はポール・トーマス・アンダーソン監督による映画で2025年のアカデミー作品賞を受賞。他にも監督賞とか脚色賞とかショーン・ペンが助演男優とったり色々。おめでとう。
この映画の予告を初めて見たのは『ジュラシック・ワールド 復活の大地』を見に行った時だった。めちゃくちゃ面白そうだと思ってワクワクした。浅学ながら、PTAを知らなかったので自分で発掘した感がワクワクへ拍車をかけた。はっきりいうが、ジュラシック・ワールドの2時間よりもこの予告を見た2分ちょっとの方が面白かった。そして公開するや映画館に見に行った。めちゃくちゃ面白かった。
映画って自分で発見したか他人から勧められたかで面白いかどうかがめっきり変わってしまう。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の座組しかり、最近だとまだ見てないけど『超かぐや姫』もか?他の人が盛り上がりまくってるのを見るとそっと一線を置いてしまうところがある。発見において客観視点はいらない。完全に主観でいいのだ。自分の中でまだ盛り上がってたか盛り上がってなかったか。これが最も大事で、そういう意味でPTAすら知らなかった俺にとっては『ワン・バトル・アフター・アナザー』が楽しみだったのである。
あとレオも好きだったので嬉しい。あんま賛同を得られないとこではあるけど、レオは美少年期よりも今のヘンテコおじさんになってからの方が好きです。駄目親父役が最近多く、そうでなくてもストレートにかっこいい役はあんま見てないかな。俺が。今作は生涯ベストに入れるくらい好きだったんだけど、同じくレオ主演の『インセプション』も生涯ベストに入ってるので俺は結構レオのことが好きっぽい。『ドント・ルック・アップ』も好きだったし。(こっちはアダム・マッケイが好きだから説もある)。
なんか、本作はPTA作品の中でも分かりやすい方らしいが、それでも若干わかりにくかったとこはあった。これが初だし。ちなみに初めて見たのちに、『マグノリア』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』そして昨日『リコリス・ピザ』を見たので上述の件も納得。この感想はU-NEXTに来てくれたので吹き替え版を見てみた上での感想であることも併記。
ネタバレあり
フレンチ75という左翼革命組織で青春を過ごしたパット(レオナルド・ディカプリオ)。パットは同じ組織のペルフィディア・ビバリーヒルズ(テヤナ・テイラー)と恋に落ち、娘シャーリーンを授かる。しかし、ペルフィディアは自身より子供を愛するパットへの複雑な感情からより一層革命に没頭する。そしてついにペルフィディアは捕まり、司法取引の末、フレンチ75のメンバーはピンチに。パットはボブと、シャーリーンはウィラ(チェイス・インフィニティ)と名前を変え、遠く離れた地で平凡に暮らすことになる。時がたち、世界は変わらないまま16年。かつてペルフィディアに性的欲求に近い執念を抱えていた軍人・ロックジョー(ショーン・ペン)が動き出す。彼はクリスマスの冒険者という白人クラブに入会するためにかつて、ペルフィディアと性行為をしたという事実をもみ消さねばならなかった。もしかしたらウィラはその時にできた子供かもしれない。追われる中でウィラはフレンチ75の残党と合流。ロックジョーから逃げ続け、一方、ボブもまた、ウィラと合流するために奔走することになる。
まあ色々解説とか読み漁ったので元の俺の感想を述べることは極めてむずい。ただまあ昨日『リコリス・ピザ』見て思い出したことがあってそれについてまずは言いたい。今映画の1番の魅力はキャラが生きてることだと思う。見たPTA作品全般そうなんだが、キャラが生きてますね。キャラが勝手にしていると言った方がいいのかな?多くの映画、仮にそれが面白くてもそうじゃなくても、映画には映画という不文律がある。何が言いたいかというと、難しいんだが映画ってその映画のテーマ的なものが裏にあってその空気に乗ってキャラが動いたり話が進んだりする。これは制作の都合でキャラが動かされてるとかちゃっちいものじゃなくてもっと大きな意味でのことだ。上手く言えないな。「この映画のテーマは家族を大事にだ!」とかそんなのじゃなくて、というかそんなのも含めてもっと大きな「この映画」の空気感が全てを包んでいる感じ。
例えば、『センチメンタル・バリュー』は映画と家族の話だった。ここにおいてキャラとか、ストーリーは『センチメンタル・バリュー』的概念を背景に漂わせている。だから、矮小化して家族とキャラに限って言うと、家族とどう向き合うか、向き合わないかという問いを全キャラクターが漂わせてる感じ。その問いをぶっ壊す存在のエル・ファニングもメタ的に見れば「問いを壊す」と言うことによってそれを漂わせることになってる。
まあ伝わってるかわからんが、じゃあPTA作はどうなのかというと、違うんですよね。キャラが勝手に生きてる。映画の文律とか関係なく各々が勝手に動いてそこにドラマが生まれるという映画。なんか、脚本に沿ってると言うより、その辺にいる人にカメラを回し続けてる感じ。本作で例えるとメイン陣はもちろんだが、急に気が変わって(元々かもわからんが)ウィラを引き渡すのをやめたおっさんとか、クリスマスの冒険者のあいつとか。好き勝手動いてると言うよりはそいつらにもそいつらの考えがあってそいつらの物語を生きてる感じ。そいつらは『ワン・バトル・アフター・アナザー』の映画を生きてるんじゃないんです。ここが本当にいい。これがPTA作のガチで何が起こるかわからないし、何が起きてるかもいまいちわからないと言う魅力につながってるんじゃないでしょうか?!
と頑張って言語化した。この前提を持ってるから、PTA作品、正味何見てもおもろく感じることができる。公園に座ってるおっさんの1日を長回しで撮ったビデオを「これPTAのやつだよ」と言って渡されたら、俺は面白く見てしまう気がする。流石にそれはないと思うが。
本作は割と全部おもろい。革命家として青春を謳歌するパットとビバリーヒルズの楽しさ。そしてその中で光るビバリーヒルズの怪しさ。という前半部はもちろん、ショーン・ペンが迫ってくる後半、センセイの最高さとかまあほんとに「戦いに次ぐ戦い」と言った感じで3時間ちょいあるにも関わらず展開がぐんぐん進む。さっき書いた、何が起こるかわからない感じというのが今作は顕著で、bgmの不穏なテンポがずっと観客を緊張させ続ける。
何が起こるかってのがほんとにわかりづらいのがずっと見てて楽しいということにつながってる感じがする。例えば、ボブが屋根をつたって逃げるシーン。そのシークエンスで急にボブは地面に落ちてあっという間に警官に捕まる。え?大丈夫?。しかし、連れて行かれた先には助けてくれる革命軍が潜んでおり、助けてもらった。そしてセンセイと合流して勝利の自撮り。上手く言葉にはできないが、ただ予想がつかないだけなら面白いのは初回だけだ。一方で2回目見た時もこの辺、めちゃ面白かったので予想がつかない以上の何かが面白さにつながってるんでしょう。
センセイのシークエンスがやっぱ楽しくていいですね。ベニチオ・デル・トロ。いつも瞼に錘をつけてるのか知らんが基本ずっと半目でやる気のなさそうな顔をしている。これが『スター・ウォーズ』では怪しいキャラとして活用されてたが、今作ではどうだったか。めちゃめちゃ冷静なキャラに見える。ボブと対照的にずっと落ち着いており、カラテ魂を宿している。のかな?半目って余裕の象徴でもあるわけね。センセイはこいつ単体の映画が出ても全然見る、むしろ見せて欲しいレベルに魅力的なキャラ。劇中の活躍シーンは冷静に考えるとめちゃくちゃ少ないんだが、その強烈性でアカデミー助演男優にノミネートした。だが、流石にショーン・ペンが勝った。『ジョジョ3部』でいうとホルホースとDIOが競ってるみたいなもんだからな。
センセイシークエンスは街中がパニックになってるのも合わせて絵的な楽しさもすごい。もうみんな言いまくってるので今更すぎるが「viva la revolution」のとこも最高。センセイセンキュー。どこ切り取っても面白い本作だが、センセイシークエンスはそれがさらに濃縮されてる。
ショーン・ペン演じるロックジョー、そしてビバリーヒルズのキャラクターもめちゃくちゃ良い。ロックジョーは白人至上主義でありながら、黒人で革命家のビバリーヒルズにムラムラしてしまう。映画内のMAGA?と言っていいのかわからんがそれ系キャラは大体自身、もしくは近しい人のパーソナリティにLGBTや人種等の自己矛盾をはらんでいる。当たり前だが、ただただ特権的地位を信じてるだけの人はドラマにならずつまらないからだ。結局、ロックジョーにとってのこの"過ち"に彼は首を絞められることに。白人クラブに入るにあたって、黒人と関係を持ったなど言語道断。そして子供ができているなど持ってのほかだ。ロックジョーはそんな矛盾をはらみながら、その矛先を向ける方向をひとまずはウィラに定めて動き続ける。まあネタバレするとウィラが実子だし。ロックジョーの複雑性とそして恐ろしいほどのキモさを表現しきったショーン・ペンのオスカーは妥当だと思う。
ビバリーヒルズはすごいキャラだと思った。娘が生まれた後、(パットとの間の子供だと思ってる。)パットからの愛情が娘に注がれるようになったことに不満を持ち始めるキャラだ。ビバリーヒルズは娘が生まれた後も革命を続け、最終的には捕まり、司法取引に応じたことで革命軍からは裏切り者として扱われる。この映画はペルフィディア(ビバリーヒルズのファーストネーム・今思い出した。)が母になる物語じゃないっていうのに特異性があると思う。こういう系の女性、もしくは男性が子供と向き合う中で自身の感情と子供の存在に折り合いをつける映画は世の中にいっぱいある。自分が現役を退くという意味で拡大すれば、さらに増える。だけど、ペルフィディアはこの映画を通じて母になることは(多分)なかった。最後の手紙のシークエンスはペルフィディアが「母になれなかった」と伝えていると思う。後述するけど、この映画は「俺たちは無理だった、できなかった」という映画だと思ってる。その中で象徴的なのがペルフィディアというキャラクターじゃないかな。彼女は母にはなれなかった。ならなかった。(これ書くためにさらに見返したら思ったよりガッツリそう言ってた。)
本題。ってか上記の全部含めて本題なんだけどね。
やっぱ本作で描かれてることは失敗した世代のことなのかなとは思った。パット改めボブたち世代の話。そういう意味では若者真っ盛りの我が身としては全共感とは言いづらいのも事実。その身で言うのもなんだが、「俺たちの戦いは勝利では終わらなかったし、世の中は良くならなかった。俺たちは失敗した。だけど、君たちは成功できるかもしれない。」という内容の映画でしたね。よくよく考えてみると主役のボブはこの映画内、特にウィラの救出にあたっては一切役立っていない。最後までウィラを追っかけ続けるだけで、ウィラが勝手にロックジョーから逃げ続けることができた形。これは冒頭の革命とダブってると思う。ボブたちのフレンチ75はお世辞にも世界を良くできてるとは言えない。それどころか、組織は合言葉をいえるまでボブを助けないなど、誰かを助ける革命から形骸化していっている。そんな中で最後のウィラの合言葉のシーンが輝く。
ただ、父の失敗から学ぶ系の映画ではないと言うのが結構なミソだと思う。ウィラがボブやペルフィディアの失敗を知ってどうこうという映画じゃない。ウィラはロックジョーからの逃走(闘争)の中でペルフィディアの失敗を知るが、そこには失敗したと言う事実があるだけだ。父母の闘争の失敗があって、それを受け継いで活かすわけじゃない、有機的な繋がりがあるわけじゃないという妙。だけどつながっていないわけでもない。まさに一戦去ってまた一戦という本作のタイトルを象徴している気がする。
ごめんな!残念ながら俺たちの戦いは上手くいかなくて世界は良くなってるわけじゃない。「だから娘の世代に託す。」という映画でもないよね。失敗した世代として切り捨ててるわけでも、愚かに書いてるわけでもない。ボブが最後スマホ買ってるシーンとかペルフィディアの手紙で「いつか会えるかも」と描かれてるシーンからも。というかこの映画はそういう世界どうこうから非常にミニマムな論理に進んでいく感じがある。こんな世界の中でも、それでも君のことを愛したい、愛したかったんだというボブ、ペルフィディアのライン。
まあ色々考えたが、割とPTAがあえて描かなかったものが多いな。それだけ曖昧な中で純粋なものとしてただボブがウィラを追い続けるのとロックジョーのキモさが光る。世界を良くするための戦いは終わらない、ワンバトルアフターアナザー。みたいな陳腐なことを言うのが憚られるな。なんか、戦い続けてるわけではないんすよね。まさに一戦去ってまた一戦といった形で一戦一戦が連なってるわけじゃない、でも独立してるわけでもない。お互いに干渉することはできるよね、という言い方がいいのかもわからん。今、めちゃくちゃいいイメージ浮かんだんだけど、カイジのブレイブメンロード(鉄骨)の57億の孤独の概念に近いかも。
まあそんな感じ。超面白いのでガチで見た方がいい。最後に吹き替えの話するが、ディカプ役が浪川だった。ディカプの吹き替えってまじで定まらんね。個人的には内田夕夜がいっちゃん好きです。