【感想】『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』/ポリコレ論争、ここにて終結。バトル以外の道を見つけねばなるまい。

タイトル:ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界

  監督:ドン・ホール

  形態:映画

既か未か:未

 

『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』みた。

 

こりゃまた『ポカホンタス』に続き大変な作品が来ましたよ。別に本来はそんなでもないんですが外野のワイワイやイザコザが盛り上がってるので触れずに語るのもなんだかなという感じ。そしてそのためには俺が忌み嫌ってる言葉「ポリコレ」を真剣に考えねばならない。

 

「ポリコレ」つまりポリティカリーコレクトが嫌いな理由。それは過剰に配慮されてるからです!普通にマイノリティ的表象は自然に入れ込むだけでは違和感が出てしまう。だから作品にあったしっくりくる表象ならば文句は言わないのです!

 

なんて思っても見ないことを言ってみてとんでもないことに気づく。つまり俺は空気読めないブラックジョークを発したのだが、本来俺が一緒に話したいような方々は上記文言を見て即座にブラウザバックするだろう。し、「おお!そうだよな!ポリコレは"行きすぎてる"よな!」みたいな人はこれから俺は全然そんな考えじゃないことを伝えるのでお怒りになること必至だ。

じゃあもうこのブログを読んでくれる人は誰もいなくなってしまい、最近身バレしたから俺の友人が一人読むだけになるだろう。ただそれでも違う意見を受け入れようとする土壌を持つ人、分断以外の選択肢を持つ人ならばなんとかここまでたどり着いてくれてると思う。だからそんなみんなと仲良くなりたい。もちろんそうじゃない人とも仲良くなりたいが。

 

じゃあ結局なぜ「ポリコレ」を忌み嫌ってるかというともう世間的に馬鹿にされる言葉としての認識がついてしまったからです。「ポリティカリー・コレクト」という元語すら知らずにポリコレと発する人々は必ず枕詞に「過剰」とつけます。残念なことにこの語は「フェミニズム」や「ビーガン」のように本来的な語の意味から少しそれ、何かを揶揄する言葉として定着してしまった。だからあんま好きじゃない。「ポリティカリー・コレクト」的な考え方は全然嫌いじゃない。

 

前提がすごく長くなってしまいましたがそれは今作がまさに「過剰なポリコレ」として槍玉に挙げられがちな作品だからです。少しでも感想を調べてみればサジェストが醜くなることこの上ない。

ストレンジ・ワールドは登場するキャラの特質や特性が「過剰に配慮」されたものとして捉えられる傾向にあります。2026年に生きてる俺はもはや見ていてなんとも思わなかったのですが、(そもそもの評判を知ってたからという前提もある)まあ違和感に思う人はいっぱいいたのでしょう。実際、感想調べてみたらそんな感じのことを言ってる人はいっぱいいた。(でも得てして中身が薄いか分量が少ないので真に言わんとしていることは微妙にわからなかった。)多分、心理的嫌悪感の存在じゃないの?ぶっちゃけ。と思う。これって言語化しにくいので。

 

思わんとしてることは多いが後半に書くとして今作にはただでさえの前提に加え絶妙にややこしいことがある。「そんなでもない」ってことだ。別に擁護してえって思うほどは面白くない。でもつまんなくもない。ここが本当にややこしい。今作が仮にめちゃくちゃ面白くて世界がひっくり返るってほどだったら議論はもっと盛り上がるんですよ。ポリコレがどうの言ってる人にも「まずみれば?」と言えるし。そして仮に今作がめちゃくちゃつまらなかったら「怒れる」んですよね。経営陣に。でも「そんなでもなかった」。おっそうか。

ディズニーの贈る探検物はこうなる運命なのか。『アトランティス』や『トレジャー・プラネット』と全く同じレベル感の感情になりました。(後者はディズニー好きから異常に褒められてるが俺はそんなでもないと思ってる。)

 

前戯が長すぎた。とっくに舞台は整ってるので続きは後半で考えたい。話に関してはかなりそんなでもなかったとはいえ、全然面白くはあったのでさらっとまとめることになりそうだ。

 

ネタバレあり

 

アバロニアは果てしない山脈に囲まれた地である。冒険家のイェーガー・クレイド(デニス・クエイド)とその息子、サーチャー(ジェイク・ジレンホール)は新たな世界を探索するため冒険していた。山脈を越えようとした時、サーチャーはエネルギーを放つ緑色の植物、パンドを発見。パンドはエネルギー不足に役立つかもしれないとのことから植物を持って帰ろうとするサーチャーに対してイェーガーは探検を続けようと反対。イェーガーは一人探検を続けることを決め、サーチャーは探検隊の仲間と帰る。25年後、サーチャーの持ち帰ったパンドはアバロニアのエネルギー源となっていた。彼は妻のメリディアンと共に農場を営んでおり、息子イーサン(ジャブーキー・ヤング=ホワイト)と幸せに暮らしていた。しかし、ある夜、大統領のカリスト・マル(ルーシー・リュー)がサーチャーの元にやってきてパンドがエネルギーを失いつつあることを知らせる。原因究明のため彼らはパンドの根を調査しに向かう。

 

もちろん探検先でイェーガーと再会し、親子3代のドラマが始まる。全体としての設定はいい。一人でキャラが立ちまくってる冒険ジジイ、イェーガー。息子のサーチャーはイェーガーの反発するように農家へ。息子イーサンにも農家をして欲しく思い、父イェーガーのようにならないでほしいと恐怖する。しかし、それによってしていることは自信がイェーガーに冒険家の道を押し付けられていたことと一緒だ。

サーチャーとイェーガーが仲直りできるか。サーチャーのイーサンへの態度の変化。この辺がメイン軸となるドラマ。ここがうまく対応してたらよかったんですが、若干下手やったね。全部セリフで説明してしまうのが勿体無い。ちゃんとした感想文ならほぼ全てのものに載ってるんですが中盤、3人がカードゲームをやるシーンでゲーム内容と映画自体のストーリーをダブらせてわかりやすくテーマを語るんですが、この手法は下手くそやろ。明言しすぎなんですよね。セリフが語りすぎてる。サーチャーとイェーガーが一緒にビール飲むシーンとかみたいなのはよかった。映像で語らないかんよ。映画だし。

ただ材料がいいのは事実。もっと親子3代の絡みを見たかったなあ。

 

あと肝心の異世界。私は異世界に全然興奮しないタチなのですがデザインはいいね!と思いました。異世界に必要なものは二種。この世ならざる見た目と襲いかかってくる恐怖です。前半はクリアしてたかな。一応この異世界にはテーマがあって、それが後半の種明かしになるんですがそれを差し引いても奇妙な見た目はよかった。見た人全員言ってるがまあスプラットも良かった。人間的すぎるきらいはあるものの。一方危険性は皆無に等しい。子供向けアニメとはいえどもワクワクって恐怖の裏返しでもあるのでもっと頑張って欲しかった。別に誰かが死ぬ必要はないが、死ぬかも?とは思わせてほしい。

 

全然関係ないんだけど主人公一家の目が怖い。これ誰かわかってくれない?なんでなんだろう。大統領の目は怖くないんすよ。ディズニー映画見てて目が怖いと思ったのとか初めてなので違和感を持ってる。目が怖いってのは目線とか見つめとかじゃないんですよ。目の造形が怖い。異様にクリクリしてる感じがする。このせいで話があんま入ってこなかったところもある。

 

ラストの選択はもっと重くて良かったな。パンドを手放すという決心は今までの自分の功績を手放すということに他ならないわけで、だからもっと葛藤が欲しかった。というかここの手放しはもっとしっかりとイーサンを自分から解放させることと対応させるべき。イーサンがZ世代らしく控えめなのでもっとがっつりサーチャーとぶつかっても良かったんちゃう?1時間40分という短い上映時間がそうさせたのかは知らんが全体的にあまりにも淡々としてて消化不良だわさ。ここまで書いた感想に関する内容、全てあと20分くらい使ってじっくり描いたらもっと面白くなったことでしょう。もっとアバロニアでみんながどう暮らしてるかとかも知りたかった。

 

探検ものとしてやっぱディズニーだと限界があることがよくわかった。全然こっちとしてはドラえもんとかで探検してくるんで会心の出来になるまでは得意なとこに力入れてほしい。

 

 

ポリコレ論争

というわけで本題です。いや、本来なら内容への感想が本題になろうところをね。仕方ないです。だってみんながその話ばっかするから。

今作、このブログだけを読んでて、映画見てない人なら頭の中にどんな絵を思い浮かべたかわかりませんがおそらく実物とは違う可能性がある。というのもイーサンは黒人でゲイ、主人公はおそらく白人?だが奥さんは黒人で、この感想文に書いてすらないペットの犬は身体的に足が1本ないという障害を持っている。

結論言うよ?「だからどしたん。」2026の時代だからか否かはわかんないが、別に黒人のキャラが出てて性的指向がマイノリティのキャラが出てても思うことはない。普通ですからね。映画いっぱい見てるからかもしれんが。そして犬に足が1本ないことには気づきすらしなかった。観察眼が薄い。結局、俺個人としては別に"過剰配慮"ともなんとも思わなかった。公開当時に見てないからってこともあるかもですが。

そんな気になったのかな。議論が盛り上がってるってことはみなさん気になったのでしょう。でもこれって完全新作だし、配慮もクソもなくねって思ってしまう。別に新作だからどうのは本来的なポリティカリー・コレクト関連からは必ずしも正しい論にならないのですが。

 

個人的に気になったとこは一つだけ。イェーガーがイーサンがゲイだってことに無反応だったってことですね。あそこは25年間も外界にいた空気読めなさそうなじいちゃんが孫の性的指向に理解があるのはちょっと違和感あった。『ザ・ボーイズ』のソルジャー・ボーイみたいなもんで前時代系男子だと思ってたので。というか、イェーガー声優デニス・クエイドは『ザ・ボーイス』のヒューイ役の父だ。そしてMAGAのイメージ。現実のデニスは絶対に理解ない気がする(偏見)。ただこの映画を見てるゲイ当事者の方からすればそんなかったるい描写わざわざ映画の中で見たくないってのもあるのかも。ならあんまり強く言うこともしない。

 

なんだかゲイであることや黒人であること、もっと言えばそのほかの映画のアジア人であることや身体に障害があること。それらに意味がないとダメってのは考え方としてどーよ。これが100歩譲ってまだ奴隷制ゴリゴリのアメリカの話ならそりゃおかしいやろとなるがこの世界のバックグラウンドはわからん。この意味がないからゲイ描写はいらんとか言ってる方々の考え方ってちょっと「普通」の押し付けな感じがする。彼らの脳内では白人で女性にデレデレする男が普通なのかもしれないし、そうじゃないと違和感を感じるのかもしれないですが、現実はそうじゃないんよ。色んな人がいるのが現実なんで。

 

 

最近も黒人アリエルのアニメシリーズがディズニープラスで配信されて話題になってましたね。見た目という点に関して、よくおこなわれる批判が「元のキャラではなく、オリジナルキャラで"ポリコレ"をやるべき」というものだ。大概の場合、リベ系からは「いや、まさにストレンジ・ワールドがオリ作ですけど?ポジション・トークですやん」と言った反論がかまされるし、実際にそれはそうだと思う。だけど、みんなの大好きなキャラが"無理やり"マイノリティにされた〜!みたいなことについては真剣に考えてみたいと思う。

 

 

キャラのルーツ

この話題をわざわざ上げる理由として、クソオタクとしてはやっぱキャラのルーツ的な部分に関する変更は気になるからです。とは言いつつも俺の守備範囲内で気になる変更はほぼゼロに等しい。一応手持ちのカードとしては『リトル・マーメイド(2023)』にて、アリエルの兄弟が全員有色人種になっていたというものがある。イメージするルーツ的には「トリトンは妻のことを愛しており、だから姉妹全員にAから始まる名前をつけた」というものだ。人種が違うってことはめちゃくちゃ浮気してますやん!というカードだ。だが、別にトリトンのことはそんな好きじゃないので奴が浮気者であろうとガチでどうでもいい。もちろん、この理論は「俺が気にいるからいい、それ以外はよせ」すぎる横暴的結果論であり、だからこそ、あえて自分の好きなキャラが変更された際のことを考える。

 

ってか、さっきの横暴的結果論に関しては支持者が多い現代なのが怖い。戦争論とかはまさにそうで、戦争した方がいいって言ってるお前は徴兵されて死にうるけどいいの?としか思えん。たとえば、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』ではサノスの宇宙人口の半分を消す論について「サノスは正しかった」論者が現れた。この映画はみんなの大好きなヒーローが死んじゃった!とわからせることにより、消えてたのは自分に関係ある人かもしれない=そうじゃないかもしれない的に横暴的結果論を打ち消すものなのでガチでこの映画見て何も学ばなかったんだと思う。結果論を愛する人間は基本的にその結果が悪い形で自分に向かってきた時のことを考える気はゼロだ。誰しもに悪しき結果が訪れる可能性がある。だからみんな政府を作ろうねってのがホッブズたちの自然状態に関する議論だ(超大雑把)。昔の人はすごい。

 

閑話休題すぎるが、じゃあたとえば、俺の大好きなプーさんがアメリカ製のクマのぬいぐるみになったらどうだろう。クリストファー・ロビンが中東人になったら?正直嫌かも…。ただ、俺のプー愛はイギリス的アイデンティへの愛だったかっていうとそうではない気もする。だってアメリカギャグ的要素の多い『くまのプーさん2011』が好きだからね。じゃああんま嫌でもないかもな。また、別のプーとして捉え直すだけだわ。実際、A・A・ミルン原作のプーシリーズは全然ディズニー以外からも映像化されており、キャラデザとかはもちろん違う。が、別にわざわざそれを探し出して怒ろうとも思わん。これはルーツの話とブレたな。

 

やっぱキャラの核的な部分を崩すのはいかんかなという決着点はある。アリエルが黒人だろうが、クリロビが中東人だろうがこっちとしてはいい。でもアリエルの歌声がよくなかったり、好奇心旺盛でなくなってたらダメだ。クリロビの想像力がゼロだったらダメだ。たどり着いた答えを見つけた。このルーツ変更の話はポリコレとはあんまり関係ねえわ。むしろ、『ドラえもん』シリーズにおける『Stand by ME ドラえもん』叩きに近い、キャラ愛がない人が作った作品への話だ。

 

一方でディズニーは小手先の多様性表象をしがちという怠さもある。オタッキーな人間なら知ってると思うがディズニーはネトウヨからは「ポリコレ」と叩かれ、リベラル左翼からは「小手先表象に加えて表現規制」と叩かれている。俺も君の味方ではない。ディズニーは八方塞がりっすね。売れそうだからとりあえずしといたろ…!的な動きはどんどん企業の首を絞めますよ。爆散しちまえ。

 

 

『ブゴニア』の感想にも書いたが「ポリコレ」派閥(もはや誰のことかはわからんが多様性に反対する人とでも)とリベラル派閥が集まった時に各々が各々の正論をぶつけ合ってるだけではもはや解決しない。どちらもに「もしかしたらこうなのではないか?」と考える力やそれがわからん!としても「わからないから聞かせて」という謙虚さが必要なのはいうまでもってことでしょう。それができたら苦労せんのよという話ではあるが楽な道はないのでね。正しい道がいつも楽だとは限らないのです。これはポカホンタスからの引用なので、ポカホンタス記事に書けばよかった。

 

 

とまあ色々言いつつもディズニーは売り上げのためなら何でもするバカ。そして政権にぺこぺこするのが仕事なので、しばらくは「ポリコレ」を見ることもできないだろう。実際、『ムーン・ガール』のあるエピソード(LGBT関連エピ)は削除され、『星繋ぎのエリオ』は表現規制を喰らった。加えて売れるからと置きにいって続編とリメイクを量産してるうちにハリウッドでは真剣に今後の社会と表現について考えています。ワーナー買収予定のMAGAパラマウントでさえも『サウスパーク』が頑張ってる。今後ディズニーがアニメ映画の王として復活するためには、そろそろお金と立場以外のことを考えだしてもいい時期じゃないですか?

各子会社、ピクサー、マーベル、スカイウォーカー、FOXも頑張ってね。『ビーバー』はとりあえず見に行きます。