
タイトル:シンデレラ(1950)
監督:ウィルフレッド・ジャクソン
ハミルトン・ラスク
クライド・ジェロニミ
形態:映画
既か未か:既
タイトル:シンデレラ(2015)
監督:ケネス・ブラナー
形態:映画
既か未か:未
『シンデレラ(1950)』『シンデレラ(2015)』みた。
一つ前の『ブリング・ハー・バック』の記事で言った通り、現在、私はディズニー実写リメイク行脚をしています(泣)。きっかけはディズニー好きの集まりに行った時の反省。実写リメイクを現場で半数くらいしか見ていないのに、「ディズニー実写リメイクはkuso !」発言をかましちゃったせいで(実際は「苦手かな…」くらいの感じね。)じゃあ『シンデレラ』は!?みたいな会話に「いや、見てない…」と歯切れを悪くしてしまった。まぁ擁護されたのは『シンデレラ』しかなかったんだけどね…。ともかく、嫌いなもんも好きなものも喰らわば骨まで精神を俺は忘れていた。なので見ます。全部。そしてなんとねっ!全部ブログに書く!。頑張るぜぇ!
現状あるのはガチで口汚く罵ってしまった『マレフィセント』の記事のみ。とりあえず、見たことある系は今後に残しておくとして、初見実写作品とその元アニメ(こっちは何度も見たことある)を順番に見て感想を併記していきます。その第1弾が今回。全然第1弾ロカ言いながら今回で終わる可能性もある。世の中はライブ感(記事がね。鑑賞はちゃんと全部しますとも)。
今作『シンデレラ』は言わずと知れたディズニーの名作。アニメ版の概略的にはいわゆるディズニー第一期黄金期に当たる作品。この作品以前は国内が戦時下だったこともあってか、長編アニメではなく、短編オムニバス作品を連発していた。『ダンボ』とか?ぶりの長編アニメ作品だった本作は大成功を飛ばし、現在のディズニーを形作った。ディズニーでなくとも世界的に有名なお伽話ですよね。
実写版は本格的な実写リメイクの初作品と言って差し支えないんじゃないかな。これ以前は『101』や『アリス・イン・ワンダーランド』、『マレフィセント』なのでそれこそ、「リメイク」なのか?と言ったところで、ベースを強く意識した作り直しもまたその後の実写作品の礎になったことであろう。
そんな実写版の監督は我らがケネス・ブラナー。なんだか鼻につくところが可愛らしいと(俺の中で)評判であり、本作もその気取ってる感を堪能できた。『プラダ2』でも似たような感想を書いた。ケネスは『ハムレット』や『フランケンシュタイン』等の硬派な作品をとる硬派なイメージで(なのにちょっと抜けてる感があるのが俺は好き)、エンタメ系に転身?して我々に近づいてきた近年でもまた、『マイティ・ソー』や本作などその硬派感を活かした作品作りをしている印象だ。唯一心から嫌なのはポアロを私物化しようとしていることくらいか?でもベニスのやつが滑ったっぽいので今後どうなるかはわかんない(この映画自体はつまんなくはなかったが、本家ポアロファンによる怒られが発生していたイメージ)。硬派なのになんだか抜けてるというイメージは彼がハリポタで演じたギルデロイ・ロックハート先生のイメージもあることだろう(俺がハリポタで一番好きなキャラ)。
結論から手始めに申し上げますと、アニメは素晴らしい。素晴らしいがまぁ他のディズニー作品に比べれば、個人的な好感はちょっと下がってしまうということ。そして、実写は毎度の如く、毒にも薬にもならん程度の普通の映画だった。だったが、時系列的に今後作られていくリメイクよりは映画としての強度はマシ、あとケイト・ブランシェット演じるケイト・ブランシェットがすごく良かったということ。何でもかんでも相対化するのは良くないとは思いつつ、まぁそれでもあくまでこの2作を比べると個人的にはトントンくらいには落ち着く感じでした。
ネタバレあり
まず実写とアニメの大きな違いについて述べさせていただくと、これはやはり、配分。当たり前だろ!と思われるかもしれないですが、念のためね。まず、シンデレラの展開としては継母がやってきて実のパパが亡くなり、継母とその娘にいじめられるという前提があります。アニメだと、いじめられ始めるまでを本当に冒頭10秒くらいのナレーションで済ませてしまうのでこの手際の良さに驚いた。一方、実写はそれが冗長だと言いたいわけでは決してなく、むしろ、シンデレラ(エラ)の母を登場させ彼女が亡くなり、そしてパパも亡くなるまでをじっくり丹念に描いているのでシンデレラの喪失を精彩に描いていると言える。一長一短。ですが、この実写アプローチはアリだね!。
今後の実写作品の記事で引用するかもしれませんが、アニメと実写の大きな違いは「リアリティ」です!これはもう言い切り。もちろん、アニメはリアルじゃねぇだろ?とか言いたいわけではなく、観客が受け入れるまでの時間、余裕という点に大きな違いがあると言いたいのです。例えば、俺の大好きなスパイダーマン。「蜘蛛に噛まれた高校生が超能力を得て悪人たちをしばき回る。悪人は砂になったり電気になったりする」という設定にはリアルがないわけですよ。これを納得させるために、実写版は丁寧な段階が必要だ。一方、アニメはある程度自由が効くので、冒頭で言い切って所与とすることもできる。アニメは複数の意味で「異世界」感が強い表現となるので、自分とリアルが違う世界にもその世界なりのリアリティを築き上げてやればすぐに入っていくことができるのだ。というのが俺の考え。
だからアニメ版では最短でシンデレラが虐められる本題まで持っていくことが可能でそれを存分に行なっている。実写はそこの説得力を実写なりの段階とアニメへの補強(上記のようなことを言いつつシンデレラの悲しみにはアニメ版だと淡白感がある)を行なっている良いリメイク。ケネス・ブラナーがポアロ役でつけた髭を撫でながら「粋じゃろ?」と言っているかのようで腹が立つがまあいい。粋だね。
なんかそのほかに特段大きな変更点はなかったですかね。あげるとすれば、例えば、コミカルさの減少かな。アニメ版を見たことない人は驚くかもしれませんが、『シンデレラ』のアニメ版ってシンデレラの家に住んでるネズミが猫とドタバタする展開に30分くらい使ってるんですよ。上映時間は1時間ちょいなのに。それらはコミカルですごくいいんですが、これを実写でやるのには限界がある。ケネスは「動物は喋らんぞ?当たり前じゃろ?」と言いたいかのように動物たちのドタバタはバッサリカット。一応登場はするし、シンデレラと親交を深めたりぐらいはするが、生きた存在というよりはシンデレラの孤独と優しさを表現する道具にとどまっていた感じではある。
同じくコミカルという点では、アニメ版では王が子供っぽくて、ベットで飛び跳ねながら剣を振り回したり(だから革命が起きるのでは?)嫌な感じなのだが、真面目になってた。そしてキャラが完全に死んでいたプリンスチャーミング役にワルスーパーマン(いっぱいいるけど)のリチャード・マッテンがキャスティングされ、生きた存在になっていた。
あとはミュージカルじゃなくなってたわ。アニメ版のジャックやガスらネズミたちが歌う「お仕事の歌」とか言わずと知れた「ビビティ・バビティ・ブー」がすごく好きだけどなくて寂しかった。「お仕事の歌」は仕方ないかな。ケネス「ネズミたちはドレスを作ったりはせんぞ」。あっはい。「ビビティ・バビティ・ブー」とか入れてくれてもよかったのでは?と思う。ミュージカルはリアリティをなくすとは分かりつつもフェアリーゴッドマザーにだけ歌わせれば、異物感やシンデレラの願いを叶えにきた夢感が強まってよかったのではないかな。ケネス「現実だと人は急に歌い出したりはせんぞ」(髭ナデナデ)。あーもう、うるさいうるさい。勝手にアフレコして申し訳ない、実際にこんなことを言ってるのかは知らん。というか多分言ってない。だいたい映画は監督だけが作るわけでもない。クリス・ワイツに聞こえているか?
実写版の白眉はなんと言っても上述の通り、ケイト・ブランシェットではないでしょうか。ケイトはトレメイン夫人を演じているというよりは、いつも通りのケイトだったけど、役者力が強い。キャラ力が強いとも言えるのかな?アニメ版のトレメイン夫人もまたとっても嫌なやつなんだけど、利口で隙がない魅力的なキャラクターだった。ただ恐ろしいだけじゃなく、畏れの香りすら含んでいた。一方でケイトはいつものケイト的コミカルさが割と出ており、それこそが逆説的に前述の畏れ要素を裏付ける。常にニヤニヤしている怖さですよね。なんか高市総理とかにイメージは近いかも。
そしてそんなケイトが心の奥底に秘めていたシンデレラへの嫉妬。実写版だけのシーンだと思うが、奥行きが出ていていいと思った。惜しむらくはそんなことセリフで言わないで欲しかったけどね。ラストの彼女の顛末を考えると、上記に加え、シンデレラの「あなたを許すわ」というセリフもめっちゃ邪魔。ケイトたちは追放される以上、全く許されてないので主人公が気持ちよくなるためだけのシーンになってしまっているからだ。
というか当たり前だが、全体的に役者陣の演技はめちゃくちゃよかった。そして演技で話を分からせて進めていくのが最近の実写リメイクには全くできていないので偉いと思った。そういう意味で、さすがケネスとは言いたいのである。だが、アニメ版があって後追いになっている以上、話の展開は同じになるのでここまでやってもようやくトントン。クリエイティブには新規制がなくては…!
で、ディズニー実写リメイクには一応、意義的な意義があってそれは何かというと、語り直しによる当時の価値観の是正です。まぁ言うても50年近く前の作品。ウォルト・ディズニーがどうなのかは知らんが、少なくともアメリカ本土的にはまだ様々な差別の土壌、空気感が蔓延していた頃だ(今でもそんな感じするけどな。相対的にね。)。そんな空気感のもと作られた危険なメッセージ性を、「当時はそうだったが、今は別の価値観を持っている、変化している」と宣言することは大切なことだと思う。
じゃあ『シンデレラ』で是正して欲しかったのは「美醜」の価値観。こち亀の両津が散々言っているが、このシンデレラという話は「シンデレラが外見が美しくてよかった」感、身もふたもない感じがある。もちろん、それだけでなく、シンデレラは心の優しい人間で、虐められても祈り続け、気丈出会ったからこそ最後に成功できたわけで、「それだけじゃねぇよっ」と言いたい気持ちはよくわかる。わかるし、俺もどっちかというとそっちタイプで冷笑には乗りたくないんだ。だが、じゃあ果たして、「見た目が良くてよかった」というメッセージを一切与えない作品なのか。両津のように感じる人が一定いてもおかしくないとも思う。そんな要素が全くないわけではない。誤解と言えば乱暴だが、そんな感覚を与えてしまう作劇ではあろう。第一、ヴィランの二人の娘はすごく醜く描かれているのだ。
そこにキッパリ!とノーを言わねば。わざわざ2015年に作り直す意味とかないのでは?。と言ってしまうと、そうなのだった。あんまりその問題が解決していない。それが2015年の実写リメイクであった。
もちろん一定のアップデートは見られる。それこそ上述の「アナスタシアとドリゼラの見た目問題」は改善されてたが、これって、アニメ版以前の原作からしてそうだ。アニメ版から対して変わっていない結末なのでなんとも言えないが、シンデレラは見た目じゃない、美しい心を持っていたから上手く行ったのだと言い切るような終わり方を目指せなかったものでしょうか。まぁ「ふぅ〜。可愛くてよかったぁ。」ということであれば俺も度々「ふぅ〜。イケメンでよかったぁ。」と思うのでまあ「あなたを許すわ。」と言ったところかね。やかましいわって話だが、本作の実写シンデレラにもそんな印象を抱いたわけで。
そんなところでした。身の回りの「褒め」勢はフェアリーゴッドマザーがシンデレラのドレスを作るシーンをすごく良いと言ってるが、そんな特筆すべきでもなかったかな。というかこれはアニメ版が素晴らしすぎるのか。もちろんわるくもなかったよ。でも実写版で心に残ったのはやはりケイトでしたというお話。
アニメ版についてはあんま言いたいこととかはないかな。改めて見直すと、思ってたよりシンデレラが魅力的だったんだなと感じたりした。そのくらいでしょうか。
ラストシーンの違いについて述べると、みんなが知ってるおとぎ話に加え、この実写版ではシンデレラの靴のサイズがピッタリ合うというのがラストだが、アニメ版は違う。アニメ版はその意外性で最後までワクワクさせてくれたし、実写版はそのアニメ版の結末に行きつかないようにするのでどうするんだ?と新鮮に思わせられた。まあ童話と同じ方法になるんだが。一応、童話も二パターン読んだが、あんま言えることもなさそうなのでちゃんと読んだということだけ記録。
おすすめ…ですかね。まぁ実写とアニメ連続では見ない方がいいかも。収まりとか諸々気になるので。暇な時になんとなくどちらか好きな方を見るべき。そしてその記憶が薄れるであろう1年後くらいにもう片方も見よう。新鮮に見よう。









