【感想】『レンタルファミリー』/偽物はどうすれば本物になれるのか?

タイトル:レンタルファミリー

  監督:HIKARI

  形態:映画

既か未か:未

 

 

『レンタル・ファミリー』みた。

 

 

泣きました。厳密には涙腺がうるうるしただけです。これは厨二くさい言い訳ではなく、ただ、発端は厨二の頃の話で、映画で泣くことがダサいと思っていた俺は映画を見て泣くことができなくなってしまった。心は揺り動かされるが冷笑的に回ってしまっていた過去のせいで涙がこぼれてはくれない。俺は感情を爆発させる力を無くしてしまった。それは俺が「偽物」だからかもしれない…。映画に合わせて上手いこと言おうとしたが今なお残る厨二性が発露しただけだった。

最後に映画を見て泣いたのは世間的には『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボトーちゃん』ということにしている。なぜなら、本当はその後も一度だけ泣いたが、それは『STAND BY ME ドラえもん』でだったからだ。自分の感情は大切にしたいと思いつつも、この映画の小手先で泣かせるやり方は気に食わんのでなかったことにしたい。なにが「ドラ泣き」だよバカが。あと、言い訳するなら泣いたのはラストではなく、ドラえもんがのび太との別れを予見するシーンだ。ラストの落とし所でしっかり泣いたのは『ロボトーちゃん』が最後。

涙腺がうるうるするようになったのも結構最近で、この流れに乗っていつか映画で号泣したい。この理性が先行してる時点でもう俺は偽物でしかないな。昨年は『リロ・アンド・スティッチ』のOP、『ファンタスティック4』のOPでそれぞれうるうるしました。言っとくが『リロ』は嫌いだ(アニメは好き)。

 

今回、前文が長くなるが感動したからなので許してほしい。俺はこういう、「偽物」映画が大好きです。なぜなら俺が偽人間だからだ。偽物の感情、偽物の身分、偽物の悲しみ。紛い物だ。偽って似せるからきてたりすんのかな。偽物はどうやったら本物になれるのでしょうか。現在身を置いている場所は正直、個人としては身分不相応な場所であり自身のアイデンティティが揺らぐことが多い。偽物という依代をかぶって言い訳してるだけの俺がそこにいるのかもしれない。

本物になるということはそのものになって自身を押し殺すことでは当然ない。むしろ、偽物、本物という概念的分類から飛び越えることでオリジナル=本物になれる。誰かの真似をしてるうちは偽物の檻から抜け出すことはできないのだ。まあこの辺は後々語ろう。

 

ブレンダン・フレイザー作は残念ながら未見。HIKARI監督作も見たことないがクリップしてたドラマ『BEEF』の共同監督だったので早いとこ見ておこう。

 

 

ネタバレあり

 

 

東京で暮らす落ち目の俳優フィリップ(ブレンダン・フレイザー)。日本での生活は早7年となるが自分自身を見失いかけていた。そんな中入ってきた仕事は「悲しむアメリカ人」。指定された場所は葬式会場だった。葬式は本物ではなく、棺に横たわっていた男が起き上がったことに驚くフィリップ。この場を取り仕切っていたのは多田(平岳大)という男だった。多田は「レンタルファミリー」という会社を経営しており、フィリップをヘッドハンティング。「レンタルファミリー」は「感情を売る」会社で多田が欲しかったのは白人の男性だ。フィリップは最初は嘘をつくことを拒むも、段々と人をレンタルする仕事について理解を深めていく。

 

レンタル〜は海外は知らんが、こと日本においてはかなり活気づいているビジネスだ。退職代行も一種のレンタルビジネスだろう。感情労働の行き着いた先という感じがするな。もちろん、悪いこととして言いたいわけではない。ただ、現代においては、人々は関係ない他者か関係ある身内かの2択に矮小化されがちなので、そのような社会性がレンタル人間の需要を生み出しているのだろう。

 

フィリップは微妙に社内の雰囲気の悪い「レンタルファミリー」で働くこととなる。「レンタルファミリー」は用途に応じて「その役」を演じる俳優を貸し出すサービスだ。大きな仕事は初めてのお仕事編の花婿役、そして娘の父役、おじいちゃん俳優の記者役である。これら三つの仕事は直接的には交わらないものの、有機的に結びつき、フィリップの何かを変える。

「レンタルファミリー」の社内環境の悪さは絶妙にリアルで、普通に社会に出たくないなと思わされてしまう。社長の平岳大は『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』にて現実ではあり得ないほど好戦的な日本の首相役を演じた。その圧が残った感じでフィリップ含め、社員の失敗に対して絶妙に嫌な空気を纏う。後述するウェディングの件もそうだが、フィリップのミスとはいえ、彼のつぶらな瞳を見つめるとかわいそうだなと思ってしまう。さらに後述だが、本作は「日本アゲ」系ではなく、割とフラットな目線が多くて良かった。こういうジメジメした感じを書くところがまさにそうだろう。

 

フェイク葬式で平岳大に「レンタルファミリー」に誘われたフィリップは興味本位で会社を尋ねてみるも、平岳大の微妙すぎる態度を察知し、また、フィリップは俺のように「正しさ」に囚われてる人なので嘘をつくような真似はできないとして帰ろうとする。前者に関してはHIKARI監督自身の痛烈な目線だろうが、岳大はフィリップのことを「トークン・ホワイト」になればいいと述べてヒヤッとする。アメリカで白人だらけの作品に念の為配置しておくだけの黒人を「しゃべる黒人=トークン・ブラック」と呼ぶ。ちなみにサウスパークにはトークン・ブラックという名前の黒人がいる。からの名前は差別要素だと思っていたら、実は視聴者側の聞き間違えでトークンではなく、トールキンだと明かされる。「サンドマンは白人が聞き間違えた名前だ…。」

レンタルファミリーは社長の多田、そして社員の愛子と光太の3人体制だ。ただ、おばあちゃんがどうのとか電話してたので出てきた3人とは別に所属してる俳優もいるっぽいな。

 

始めたばかりなのにいきなり変えが効かないレベルのでかい仕事を振られるフィリップ。嫌な職場だ。それは婚約者役だった。女性・佳恵さんは偽の新郎役をフィリップに依頼。偽の結婚式を演じねばならない。しかし、罪悪感等諸々からフィリップは混乱してしまい、当日にしていなくなる。この時の社員3人の焦り方とギスギスがリアル。岳大は「でかい白人見なかったか!」と周りを探し回る。愛子がトイレで閉じこもっているフィリップを発見。怖気付くフィリップに喝を入れる。佳恵さんにとってこれは嘘ではなく、チャンスなのだと。

無事結婚式を終え、ホテルで佳恵さんとゆったりするフィリップ。そこにやってきたのは花婿の格好をした女性だった。佳恵さんは愛している女性と結婚したいものの、こと同性婚がない日本において、さらに、伝統的な日本思考の両親との対立を避けるためにもフィリップと事実婚したことにしたのだ。ようやく2人になれるねと抱き合う佳恵さん。フィリップは静かに部屋を出ていこうとするが、2人は満面な笑みで御礼を。同じく笑顔ではあるものの、不思議な感情を持ってフィリップは初仕事を終える。

ここでまず泣いた。本当の自分になるためには偽物の結婚式が必要な佳恵さん。佳恵さんの両親は別に厳しそうな人ではないんですよね。でも、確かに今の日本では同性愛に対しての理解を得ることは難しいだろう。身内のカミングアウトに狼狽えない人間は少ないはずだ。佳恵さんは「レンタルファミリー」を使わなければならなかったわけではないんですよね。別に使わずに両親と絶縁する方法とかもあるわけで。でも両親の完全な納得や愛する人との生活の全てを取ることはどうしてもできない。偽結婚式は優しい嘘だった。「優しい嘘」にはどうしても肯定的になれない人生なんですが、それは「優しい嘘」なら良くね?勢が多いからだ。佳恵さんの両親と恋人との間での心の揺らぎや、その中でチャンスとしてレンタルファミリーに頼ったこと。多分今後後ろめたさと共に生きるんだろうなとか諸々全部混じって勝手に感情移入して泣いた。そしてフィリップの嘘をつくことに耐えられないが、それでもついたおかげで誰かが幸せになったという複雑さにも勝手に感情移入した。

 

もう2度と迷惑かけませんと謝るフィリップ。新人相手にも関わらず露骨すぎるほどに態度が悪い、岳大と愛子。愛子と仲直りしたく、飲み屋で偶然発見した愛子の隣に座ってしゃべるフィリップ。愛子はフィリップを避けたそうだが、どうにか対話にこぎつける。愛子は彼女なりのプライドを仕事に持っていた。フィリップを「外人」よびする愛子だった。日本の罪に自覚的な映画だ。

 

フィリップに次に与えられた仕事は父親役。それと近しいタイミングで今は仕事のないベテラン俳優の記者役を担うが、その二つの仕事が本作のメインライン。

前者に関してはハーフの娘、美亜の父親役だ。美亜にとって父は幼い頃においていかれた存在であり、ファーストコンタクトを持ってして、美亜にフィリップは嫌われてしまう。なお父としてのフィリップの名前は忘れた。思い出したら描くがとにかく偽名だ。美亜のママは教育熱心で私立中学?かなに美亜を入れたがっており、そのための保護者面接で片親なことが不利に働いて欲しくなかった。また、美亜の精神的な面のためにも偽父親をフィリップが演じる。

後者に関しては依頼人はベテラン俳優・長谷川喜久雄の娘。喜久雄は認知症を患っており、娘とも険悪な雰囲気に。しかし、フィリップとの間で友情を深めていく。

 

もう展開全部書いてしまいそうな勢いだ。だってめちゃくちゃ良かったからね。全部書いてたらマジでとんでもないことになるのでちょっと頑張ってまとめる。でも本当に良かったのでこんな記事読んでる暇あったら見に行ったほうがいい。マジで。

 

最序盤の結婚式もそうだが、フィリップは経験したことのないことばかり演じることになる。色々あるがもう書く気はなくなってきた。いい作品すぎて展開についていちいち書くのが無粋に思えてきたな。だから先に思ったこと書く。

本作の良さは「保留」にあると思います。そして「保留」の誠実さにあります。これはフォローしてる映画感想家のかたが言ってた全くその通りに拾ってきてるのでこの場を借りてごめんなさい。でも確かに!と思ったので書かせてもらうが、本作単体では何かを強く肯定したり、何かを否定したりしないんですよね。序盤の結婚式の話では「レンタルファミリー」を使うことに肯定的なメッセージはあまりはらまれていない。逆に否定的なメッセージもなく、そのことがフィリップの不思議な表情に現れている。

日本の文化的良さを映し出しはするが、「レンタルファミリー」社内のように、同時に日本の嫌なところも映し出す。いいところも悪いところも誠実に書くのがこの映画だ。美亜はフィリップが偽の父親と気付かず、どんどん距離を近めていく。そこに不安感を持った美亜の母は面接を最後としてフィリップを雇うのを終了。美亜はフィリップが自分の元を離れないという約束を破ったと感じる。喜久雄は認知症で家族に止められているものの故郷天草に「忘れ物」をしてるから取りに帰りたいと告げ、家族に内緒で連れて行ってくれとフィリップにお願いする。フィリップは迷いこそすれ、美亜との別れを通じて喜久雄を連れていくことを決意。喜久雄は大切なものを再び手にするも帰りしな、倒れてしまい、意識不明に。フィリップは誘拐犯として警察に勾留される。

こんな感じで1人1人の行動が生じる良い面も悪い面も書く誠実さが本当にいいです。「優しい嘘」には「嘘」という事実が絶対に付きまとう。そこに無自覚であってはダメなのです。日本に生きる外国人を通じて異文化交流でもなく、かと言って日本下げでもなく、両面に誠実に向き合った作品として素晴らしかったと思う。

 

警察に勾留されたフィリップ。彼を助けるためには喜久雄の証言が必要だ。ここで、いろいろあってフィリップと距離を近づけていた愛子と光太はフィリップを助けたいとするも、会社への影響を与え、何もできないという多田。愛子の仕事は主にある男の不倫相手として妻の元に謝罪に行くというもの。フィリップの件で多田とイザコザした愛子は、また不倫相手として謝罪をすることに嫌気がさし、場を修羅場にして帰宅、「レンタルファミリー」を辞める。

弁護士のふりをして喜久雄から証言を引き出すため、喜久雄邸に赴く、愛子と光太。しかし、時を同じくして喜久雄邸に警察がやってきた。バレたらやばい状況だったが、警察は本物ではなく、フィリップを助けんとする多田の偽刑事だった。フィリップは解放されることへ。

 

フィリップをテレビのちょい役で見た美亜はフィリップが実の父ではなく、雇われ父親であったことに気づく。母との間でのやり取りもあり、フィリップは金銭は発生しないものの美亜と「会うこと」だけは許される。美亜は怒っている。フィリップになぜ嘘をついたか聞く美亜。それは美亜を守るための優しい嘘だったと告げるフィリップ。しかし、フィリップは気づく、「優しい嘘」ではない、「嘘」をつくのはそのほうが楽だからなのかもしれないと述べるフィリップ。美亜はフィリップの方を見て一緒に歩き出す。フィリップに本名を聞く美亜。この一連のシークエンスはベタ以外の何者でもないんですが最高でした。本当に最高でした。2回言ってしまった。

 

『レンタルファミリー』のいいところは善悪どっちもやる誠実さ(とドライさ)と対話することへのアンサーを完璧ではないとはいえしっかり出したところですかね。この辺は個人的に譲れないところなので長くなるがちゃんと書く。

 

功罪・善悪・サラッと全部やるドライさ

これまあさっきも書いたんですが、伴う良いとこも悪いとこも全部ちゃんと書いてたってことですね。日本文化万歳だけじゃなくて、風俗とかもちゃんと出すとことか。後、異様にドライなのが良かったです。ドライではないんだけど、ウェットになりすぎない感じですかね。フィリップは念願の役が手に入るが、そのためには韓国に行かなくてはならない。美亜の元を離れることになる。板挟みのフィリップ。でもサラッと電話で韓国行きを断る感じとか。なんか、「泣かせたろ!」って感じがなかったのが本当に良かった。別にあってもいいんだけども。人様の感想で「喜久雄を勝手に連れていくとかはレンタル業の範疇超えててモヤモヤした」みたいなことを言ってる方がいて、それは本当にその通りなんだが、作劇見る感じ、あえてっぽいよね。

 

対話

フィリップと美亜とのシーン。これ2回目だからしっかり書くとか言ったが割愛でいーわ。嘘をつくのは楽だからかもしれないのとこね。必ずしも嘘を否定してるわけでもないし(現にレンタルファミリーは存続している。)、でも、嘘をつくことによって起こることもしっかりと映し出してる。対話って決して楽なものじゃないですよね。お互いがお互いをただ曝け出すだけじゃない。むしろ、お互いのリアルがお互いを攻撃してしまうことだってあるし。相手のトゲに刺さりながら抱きしめる覚悟が必要だ。そんな大変だけど、対話ができないかもと相手をみくびってちゃいかんよ。美亜はフィリップの嘘を受け入れる準備ができていたし。

 

 

どうでもいい話をすると社長多田は金持ちそうな家に住んでおり、小〜中くらいの息子と妻と共に一家団欒を楽しむシークエンスが映画に存在する。と思いきや、息子と妻はレンタルだった。怖すぎる。このシーンだけ世にも的な雰囲気を感じた。平岳大の全然いい人じゃないしむしろちょっと嫌いなやつ感を出す演技と演出がうますぎる。なんとなく気になって平岳大のブログ読んだんですが、なんていうかめっちゃいい人!って感じでも、歳はともかく、好々爺って感じの印象もなく、上記の印象が変わらなくて笑った。ケン渡辺っぽいというか。ごめんけど、俺は真田広之みたいな優しそうなおっちゃんの方が好きかな。

 

 

 

 

偽物が本物になる方法

偽物はどうやったら本物になれるんだろう。名付けも重要な一要素だ。フィリップは美亜の本物の父親にはならなかった。なれなかったし。だけど、父親として美亜と触れ合った時間は偽物ではない。本偽が入り混じった状況でもある。そして最後、フィリップが美亜に名前を名乗るところで美亜の世界に本物のフィリップが現れたんだなあと思った。我々、偽物は1人で存在することはできない。誰かの中に名前が残ってこそ存在することができるのかもしれない。

偽物が本物になるってのは偽/本のライン引きから逃れるってことですよね。『ファルコン&ウィンターソルジャー』でもジョンは本物のキャプテンになれず、そうじゃなくて、そこから抜け出して、目の前の人を助けた時に本物のジョンになれた。目的的行為じゃダメってことなのかな。行為を目的にすべきなのか?カント的に言えば定言命法じゃないとダメなのか。

思えば、俺の人生は目的的行為ばかりだ。ブログ自体がそもそもそうだ。例えば、今『リトル・マーメイドⅡ』の感想を書いてるんですが、見たくて見たわけじゃないもんね。『リトル・マーメイド』をイジった以上、見ないとな…という義に則って見ただけで、さらにブログ書く内容とか考えてるんだから、まったくもって定言ではない。多くの人もそんなんばっかでしょう。そのもの自体の魅力や素晴らしさはどんどん見えないものになってしまっている。受験勉強とかな。勉強の楽しみを曇らせてますよ。ほんまに。

まあただ、俺は誇りを持って偽物として生きていこうとは思う。今までの人生がそんなんばっかだし、終わってみれば、何かしら別のものを得ていたことも多い。偽物を貫いた結果見えてくるものは多分なんかしらあるでしょ。

 

 

長くなったが本当にいい映画でした。最後は吐き捨てですが邦画が嫌いな理由わかったわ。キレるシーンが嫌。「………(ボソボソ小声)ダロァッッッ」みたいな急に大声でキレるシーンが多すぎる。多すぎはしないかもだが、普通に嫌。今作は日本語で喋るシーンも割とあるんですが、『レンタル・ファミリー』の3人は3人とも神経質そうに早口で喋るので(多分そういうふうに演技指導されてる。)日本のこういうとこ、嫌だなぁと思わされたのであった。現実ではあんまり感じないけどね。邦画でばかり感じるんだ。

 

 

 

【感想】『リトル・マーメイド』/【閲覧注意】箱入り娘アリエルの受難?もしくは現状肯定。

タイトル:リトル・マーメイド

  監督:ジョン・マスカー

     ロン・クレメンツ

  形態:映画

既か未か:既

 

『リトル・マーメイド』見た。

 

思えば結構久しぶりに見た本作。実写公開に際して金ローでちょろっと流し見したが、ちゃんと見たのはそのさらに前となる。

 

ディズニー史的なことを語ると、ガチめの象徴的作品。ディズニーは『シンデレラ』や『ピーター・パン』などの爆裂ヒットを飛ばした後、伸び悩んでいた。とはいいつつ、『ジャングル・ブック』や『ロビン・フッド』等、知名度的にはそれなりの作品はあったもののね。後から見て、当時はディズニー第一期暗黒期と呼ばれるように。ウォルトの死も暗黒期を加速させただろうことは想像に難くない。そんな暗黒期をぶち破って第二期黄金期、いわゆるディズニールネサンスを開始したのが本作。

本作以降、『美女と野獣』や『アラジン』、『ライオン・キング』などみんなが知っているげきつよ作品が誕生するようになる。

 

本作は後ほど述べるけど、第三期黄金期一本目の『塔の上のラプンツェル』と諸々似てる。作劇展開や主役キャラのキャラ性等については後述するとして、作品的立ち位置もかなり似ている。それぞれの作品の一本後の作品が『ビアンカの大冒険2』、『くまのプーさん2011』と黄金期が始まったとは思えないほど爆死した往年の続編なところも同じだ。

 

リトル・マーメイドはまあもう純粋に面白いんでみんな見てください。どの感想見てもみんな面白い面白い言ってるので。俺は不満タラタラでいくんですが、それは内容的な問題で、歌、絵、展開のテンポ、キャラクターとかどことっても満点に近いので結果的には大好きな作品です。

ただ、大好きな理由を薄く語るよりは気になる部分を濃く語るぞ。ちなみにリトルマーメイドはアリエルのことを誰も否定しない(諸説あり)物語なので俺1人くらい否定したところで外野でガヤガヤ言ってるだけに過ぎないから安心してほしい。まあ一応閲覧注意です、言ったからね?

 

そしてこの感想文を読んだ暁には、他のブログと見比べて「テメェ!普段と全然言ってること違うミソジニストじゃねぇかよ!!」と思われることだろうが特定女性を揶揄したり、属性、存在を攻撃したいものではないという言い訳だけさせてほしい。また、本当に個人的な言い訳にしか過ぎないんだが、アリエル的箱入りガールズに、最近ボコボコに伸されているので哀れな感情の発露として捉えていただいても大丈夫です。

 

ネタバレあり

 

海の中で暮らす純粋で好奇心旺盛なマーメイド・アリエル(ジョディ・ベンソン)。海の王国の王様トリトン(ケネス・マース)の娘でお転婆な少女だ。トリトンはアリエルのお目付役を音楽家のカニ・セバスチャン(サミュエル・L・ライト)に命じる。アリエルは仲良しの魚・フランダー(ジェイソン・マリン)や地上世界について教えてくれる鳥のスカットル(バディ・ハケット)と楽しい日々を過ごしていた。ある日、アリエルは人間の世界の王子エリック(クリストファー・ダニエル・バーンズ)を見て一目惚れしてしまう。海の王国において魚を食べる人間の世界は野蛮と捉えられている。アリエルの恋は成就するのか。

 

 

まずな、この映画はアリエルが箱入りすぎて腹立つよぅ。全く〜(セバスチャン的口調)。アリエルが人間の王子エリック結ばれるためにマジでなんでもするという話で、そのためならほぼ詐欺に近い契約も履行。そしてその際に起きる不都合は全部権威を持った父親と陽キャの彼ピッピがなんとかしてくれるという話だ。リトル・マーメイド好きな人は怒るかもしれないですが、もう俺から見たらこんなのは慶應の女子が商社勤務という肩書を勝ち取るためにパパのコネを全力で使いまくる話とほとんど同じだ。俺は陰キャのチー牛なので「ケッ!」以外の感想は特にない。

しかし、そんな苛立ちは上述した通り、完璧すぎる歌、絵、テンポの良い展開、キャラの魅力等全ての引き上げによって離散。これは慶應のボンボンが本当に全く勉強しないものの、部活やコネ、留学やカネの力で最強になっているのにさながら等しい。俺的にはここまですごいの見せられたらそれはそれでもういいのではとしか思わされない。そして彼らの目には小市民の俺は全く写っていないので岩礁の影でフジツボとガヤガヤいっている存在にすぎない。

 

アリエルは物語開始直後から王トリトンの演奏会を飛ぶ。アリエルは好奇心旺盛で沈没船をフランダーと遊び回っていた。見つけたフォークを地上に詳しいスカットルに何に使うものか聞いてみる。スカットルはアホなので髪の毛をとかすために使う「カミスキー」だと伝える。地上に興味津々のアリエルは全く正しくはないが自信満々にモノを教えてくれるスカットルと定期的に会っている。おそらくインカレで知り合ったんだろう。スカットルはそれ以外は全部持ち合わせてないものの酒の強さとコミュ力で場を席巻するパリピっぽいな。

 

お転婆娘が大好きなもののどのように指導していいかわからないトリトンはセバスチャンにお目付役を任せる(この映画はガチで何かを対話によって解決する気がゼロ)。セバスはアリエルの秘密基地にこっそりついていき驚愕の歌唱力を見せつけられる。歌うますぎるが、もったいないことにアリエルの歌唱曲はこれで終わりだ(実写によって補強された)。アリエルの好奇心旺盛な性格がよく伝わってくる。また収集癖は俺にもあるので共感が高い。

 

アリエルはエリックと出会い、溺れそうなエリックを助ける。エリックは気絶しており気付かないが、目覚めた際、遠くに聞こえたアリエルの声に惚れ込む。エリックは結婚を望まれるも、「いつか理想の人が現れるのさ!」みたいな感じ。一方アリエルはアリエルでエリックを完全に一目惚れする。完全なる一目惚れ。アリエルはまだ16なので気にならんが、今まで散々「理想の相手を探すのさ」スタンスだったエリックは声如きで決めないほうがいいと思う。声フェチなのだろうか。ちなみにディズニーのプリンセスものの王子キャラはこれまで薄いキャラばっかりだったが(フィリップ王子はキャラ立ちしてたが、代わりにオーロラはずっと寝ていた)、エリックはしっかりキャラ立ちしていていいと思う。

 

セバスチャンはアリエルのお目付役として「海の方が楽しいよ」の曲を歌う。「アンダー・ザ・シー」は曲調に含め、邦訳の際にシーと素晴らしーで韻を踏んでることなど神ってる要素が多い。何度聴いても楽しくなる歌だが、当の本人のアリエルは煩わしいだけだろう。俺もサークル行こうとした時に教授に研究の歌なんて歌われた暁には苛立ちがヤバくなってしまうと思う。映画内ではカットされていたものの、アリエルが出かけようとするたびにセバスが歌い出す想像とかすると愉快な気持ちになる。そして、アリエルは毎回つまらないパーチーから抜け出してしまう。

 

アリエルは恋の予感に浮き足立つも、アリエルとトリトンの間で板挟み状態のセバスはどうしていいかわからない。トリトンはアリエルが恋していることを知りながら、ニヤニヤでセバスに何か隠していることはないかと聞く。こんな父親嫌だ。トリトンはなんだ、この一代で成り上がったのか(王政なので多分違う)、若い頃にモテたことがなかったのか、対人関係においてほぼ全てを間違っている感じがすごい。娘が7人いる感じもその文脈に当てはめた場合、なんだか嫌な感じがしてくる。トリトンについては後ほど、どんな人物だったかわかってくるのでここでボロクソにいったことは後で訂正しよう。なお、そのくだりでセバスはアリエルが人間を好いてることを知らせてしまい、家族会議が開かれることに。

トリトンはもちろん、アリエルもお互いの主張をするだけで対話をする気はゼロ。あろうことかトリトンはブチギレすぎて娘のコレクションをめちゃくちゃにする。コミュ症か。

 

アリエルはグレて怪しすぎる海の魔女アースラと契約を交わすことに。アースラはアリエルがエリックと交際できるように陸に上がれる足をつけてくれるとのことだ。代わりにいただくのはアリエルの声。3日間、声のない状態でエリックと恋に落ちてキスまで永久に人間になれる。しかし、無理だった場合アースラのものとなってしまう。アースラはどうやらオール・フォー・ワンのようにいろんな人からいろんなものを出したり引っ張ったりしてるっぽいわ。アースラは別に条件を隠したりはしないのでアリエルは短絡的すぎる。それどころかこれまでの犠牲者がアースラの住処にはいっぱいいるのでもう少し考えてから契約した方が良かったよ。契約の瞬間頭によぎったのは家族のこと。こいつは騙されるとか騙されないとかの世界には生きてないっぽい。

何はともあれ足をゲッツしたアリエル。声は出ないとはいえエリックゲットするわよ!トリトンにチクったという負い目があるのでセバスも協力することに。でもエリックは声フェチだった。やばみ。

 

しかし、アリエルは見た目も可愛いし、さらにお転婆ガールで「フッ。おもしれー女。」タイプなのでエリックとはぐんぐん距離を縮める。アリエルが人間世界に興味津々のシークエンスは純粋にいい。エリックだけじゃなくて地上世界にも憧れがあったものね。未知なるものへの探究心は慶應の金持ちの就職用エントリーシートには出てくるものの、それ以外では微塵も持ち合わせていないものなので、アリエルに際立った良い点と言える。エリックが現れなくてもいつか喧嘩になってたと思いますよ。トリトンお父さん。

 

セバスはその間、愉快に食べられそうになったりするが割愛。出会って3日以内にキスしなければならないというYSPのRTAみたいな感じなので、2日目の夜にして勝負を仕掛けるセバスたち。歌の出番だ。セバスが音楽家としての地力をフルで発揮する。「キス・ザ・ガール」は名曲。というかこの映画、歌が強すぎる。エリックはこの曲内で人語を喋るカニの助けもありアリエルの名前を見事知ることとなる。名前知らん女と2日遊んどったのか。

もうキス直前まで行くも、アースラの手下、ジェットサムとブラッドサム(ウツボ)によって阻止されてしまう。契約履行を力ずくで阻止。悪徳保険会社、例えるならビッグモーターのようだ。最近話題のカタログギフトについてだが、カタログギフトはギフトを頼み忘れる人の存在によって利益を得ているらしい。この、直接的な商品のやり取り以外で金を儲ける方法にはもっと国家の手が介入してもいいんじゃないのかと思う。自由競争はごもっともだが最効率=最大利益の世の中はちょっと怖いことになると思うぞ。

 

話がそれたが、ロイヤルファミリーによって教育死刑教育されたアリエル。じゃなくて、キスにミスったアリエルとエリックは興醒めなので家に帰る。アリエルが目覚めるとなんとエリックは結婚式の準備をしている。気が早すぎる。と思いきや、エリックは突然現れた女ヴァネッサと結婚するとのこと。こいつエグい。

ヴァネッサの正体はアースラ。手に入れたアリエルの声を使ってエリックを即堕ちさせる。エリックは催眠かけられてる?っぽいな。海の仲間たちやスカットルの仲間といったコネをフルに使い倒してアースラから声を取り返すアリエル。胴元から取り返すのが手っ取り早いもんね!

しかし、怒ったアースラに海に引き戻されてしまう。アースラには契約とサインがある。トリトンはアースラを攻撃するも、契約を破棄することはできない。ほぼノーモーションで攻撃を仕掛けるトリトン。娘が詐欺的契約に履行してしまったんだから一旦は話を聞いたらどうだ。詐欺元アースラか不届のアリエルどちらかとは話して状況を確認しろよ。ほんとこの家族やだ。

ただ、トリトンにも最高のところがあって、アリエルの身代わりになることでアリエルを救えると知ると否や、すぐにアースラと契約。キャシーを救うために量子世界へ躊躇いなく飛んだアントマンのようだ。トリトンはみるも無惨な姿になり、アースラが海の支配者となる。大ピンチ!だが誰かが攻撃を。エリックが海底までやってきたのであった。カッコ良すぎる。

イザコザの末、部下のジェットサムとブロットサムが亡くなってしまったアースラは巨大化。盛り上がってきた。ここからはアリエルは攻撃を避けるだけで本当に何もせず、エリックが船に乗ってアースラの腹をつく形で勝利。やっぱコネだね〜ロッテのトッポ!状態。

 

トリトンはアリエルがエリックを愛してることを理解し、アリエルが人間界に嫁ぐことを許す。そして魔法の力でアリエルを人間に変えてやる。だから対話しろや。トリトンの名台詞、「一つだけ不都合がある、娘がいなくなるととても寂しい」は子離れを描く作品のセリフとして満点レベルの名言なんだが、トリトン一家に対話が一切存在しないせいでセリフの粘度が上がってしまっている。

最後はコーラス。「あなたと私の世界で〜」のフレーズは斜に構えて悪いが排外的なワードに聞こえる。アリエルは今後もエリックと2人だけの世界にて閉じこもって生きていくから、対話とかは必要ないんだろうな。学ぶことはないんだろうなと思うと歯がゆい。まあ、ただ、排他的はちょっと言い過ぎだわ。アリエルは外の世界への好奇心で動いてるわけだし。現実投影を過度にしすぎた。今後どうなるかは続編が必見だね!(未見)

 

 

歌が神すぎるし、一つずつ所感を書いていこう。吹き替えで見たので吹き替えのこと書く。

 

「パート・オブ・ユア・ワールド」

言わずと知れすぎた名曲。この曲1発でアリエルの心情とアリエルの憧れ、そして憧れに届かない悲しみなど全部わからせるのがすごい。観客はスッと感情移入できる。燭台に立った食器はアリエルの憧れはしてるが、知ることはできない、実感を持っていないという矛盾をありありと映し出してる。そしてアリエルが感じる「足りない何か」はそういうことなんだろうなと完全に理解。アリエルには地上のリアルを手にすることができないのだ。コレクションは形骸化しているだけ。この渋さ、悲しみ=エモさ?かなを全部1曲で表していてすごすぎると思う。細かいことを言うと、最後アリエルの諦め?に近い感情で曲は終わるんですが、この時のフランダーのガッカリしてる顔が昔からずっと好きだ。溶けるくらい頬が垂れてる。完璧の曲ですね。

ちなみにこの曲は俺の十八番だ。ただ音痴なのでアルコールが入ってからじゃないと歌うことはできない。

 

 

「アンダー・ザ・シー」

セバスチャンがアリエルに陸より海の方がいいよ〜と言う曲。さっきも書いたがシーと素晴らシーの韻の踏み方が完璧。セバスがノリノリのよそでアリエルが手遊びとかしてるのはかなりリアル。しょっちゅう聞かされてたのかなとか思わされる。この曲は日本age海外sage動画のようにかなり捻じ曲がった陸への悪意をセバスが歌詞に当てはめて、最初こそ、そこに納得するけど、中盤、色々な種類の魚が出てくるのをみるにつれて、こいつらも魚食うやろ…という余計な思いが生まれてくる。そんな危険思想が出てくる前にバイブス上げて楽しくなってくるので気にしないでいーや!改めて見るとだいぶ抽象戯画化された海だな。ある大きな魚の口の中で歯を叩いて演奏してる魚がいる。食われるぞ!ガキみたいなツッコミを入れてしまった。

最後アリエルがいないことに気づいて爆速で解散していく魚たちを見ると失敗したフラッシュモブが想起される。フラッシュモブって終わった後打ち上げとかいくんだろうか。

 

「哀れな人々」

アースラがアリエルとの闇契約にこぎつけるための歌。初っ端から、昔は私もワルだったわ…というのがうまい。結構、ちゃんと説明してるのねと改めて思わされる。お代がもらえないとお仕置きする、時々クレームがつくらしい、とか。笑ったんだが、アリエルは全然話を聞いてなくて周りの装飾とかよそ見しまくっている。するとアースラが「大事な話なんだからよーくお聞き!」と言ってアリエルにこっちを見させる。取引の時点で悪意があるのはそうだが、ちょっと優しいとこあるじゃんと思った。そしてアリエルは相手が怪しいんだから話くらいよく聞け。

当たり前だが、支払いが声のことも合わせて、アリエルは真剣に考え出す。そうだ。それでいいんだ。しかし、ここからがアースラの本領発揮。曲のテンポをあげて時間がないことを強調。詐欺のやり口だ。ヤクザに事務所につれて行かれたら終わりだそう。まあ物理的にもガチで終わりだが、契約関連で言うと、事務所でヤクザに周りを囲まれ、威圧感を出された時点で正常な判断ができなくなってしまうらしい。アリエルも焦らされて正常な判断ができない。俺もそうだったことあるから共感。カイジも遠藤に急かされてたわ。急かされて、その場から逃げたい一心で正常な判断を行えなくなる。さらに橋の通行料とか、対称性ゼロの例えをあたかも近しいように差し出す。思いきってとかいう。契約履行を正当化する甘い言葉だ。アリエルはこういうのに弱い。現実ではなく正当化のための甘い蜜に弱いのだ。

アースラはしかも力づくでキスを阻止してくるので始末が悪い。

 

「キス・ザ・ガール」

セバスチャンたちがアリエルとエリックにキスさせるぞの歌。生々しいな。3度目のデート理論があるが、セバスチャンたちがそんな感じでそろそろキスしないとやばいかもよ?とエリックに伝える歌。楽しい。アリエルには声が出せないのでどうやら名前も知らなかった様子。エリックはせめて名前くらいは知りたい。当たり前だ。ってか遅い。ラブホのベッドで名前当てっこ始める感じか?自己紹介くらい覚えとけよ。エリックはミルドレッドから始まる地獄のローラーを開始するが、セバスが教えてくれたことで無事アリエルという名前を知る。あ行からローラーすれば比較的楽だったのに。エリックの名前を聞いた時の反応は満点。

キス用の入江に入っていくシーンで笑った。周りから見られたくないもんね。ムードは万全。キス準備完了。野生動物が興味津々に身すぎていてちょっと嫌かも笑。刃牙の初夜に範馬勇次郎が駆けつけた感じの嫌さ。セバスは場さえ整えたら去ってあげても良かったんじゃない?

この後、歌とは関係ないが、エリックがアリエルと結ばれることを覚悟してフルートを投げるシーンはまじかっこいい。名シーン。

 

 

もし俺がリトル・マーメイドに出てきたら

そんな感じでした。死ぬほど書いたが、別にリトルマーメイドを嫌いなわけじゃない。むしろ大好きです。ただ、対話がないのが気になるな。こんなおせっかいで口やかましい俺がもしリトル・マーメイドに出てきていたらどうなっただろう。おそらく、普段はアリエルと仲もよく、俺自身は陸の世界に興味はないが、アリエルから陸の話をされるたびに「ええやん」と言っていたことだろう。しかし、トリトンと喧嘩になってアースラの元へ行く際、確実に、俺はアリエルにちょっと話したいとか言う。

「アリエルに親父さんがしたことはよくないが、親父さんにも親父の考えがあるはずだ。絶対ちゃんと話した方がいいし、アリエルはちょっと話をきかずに突っ走るところはあると思う。それはいいところでもあるけど。」これを聞いたアリエルは、アリエルってあんま人の話を理解するタイプではないっぽいのでできるだけ丸めた俺の言葉は届かず、話をきかずに突っ走るですって?と心の中で怒。そうやって否定しないでほしいみたいなことを言われる気がする。すると俺はカチンときて強い言葉を言ってしまうかもしれない。「そういうところは絶対あると思う、演奏会飛んだのとかもよくなかったんじゃないの?」と。

アリエルは怒って俺と縁を切り、結局アースラと契約しただろう。その状況に加え、俺はトリトン一家から金を借りてる可能性が高い。縁を切られるのはなおさらのことであった。そして、さらに俺は理解していなかった。アリエルにはコネと父の権力、イケイケの彼氏がいるので突っ走ってもなんとかなるということを。

以上、夢小説パートでした。

 

 

 

 

こうなりゃ、全然ディズニーでもなんでもないが、何も持ち合わせていなかったアリエルがアースラと契約したらどうなるかは気になるな。ウシジマ君とか読めば見れるか。

 

 

あと、ディズニー映画的に思ったのは海の中が暗い感じがすごいと思った。これ、見てもらったらわかると思うんですが、以降の作品、『美女と野獣』とかと違って、全体的に画面が濃くて暗いんですよね。これが他の作品と一線を引いたエモさの醸成に役立ってると思う。なんか深海って感じ。それだけじゃなくて第1期暗黒期と共通した画面の薄暗さもある。これの制作時点では『リトル・マーメイド』が当たるかどうかなんて予測できなかったもんね。シンプルに最高の映画でした。

【感想】『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』/ポリコレ論争、ここにて終結。バトル以外の道を見つけねばなるまい。

タイトル:ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界

  監督:ドン・ホール

  形態:映画

既か未か:未

 

『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』みた。

 

こりゃまた『ポカホンタス』に続き大変な作品が来ましたよ。別に本来はそんなでもないんですが外野のワイワイやイザコザが盛り上がってるので触れずに語るのもなんだかなという感じ。そしてそのためには俺が忌み嫌ってる言葉「ポリコレ」を真剣に考えねばならない。

 

「ポリコレ」つまりポリティカリーコレクトが嫌いな理由。それは過剰に配慮されてるからです!普通にマイノリティ的表象は自然に入れ込むだけでは違和感が出てしまう。だから作品にあったしっくりくる表象ならば文句は言わないのです!

 

なんて思っても見ないことを言ってみてとんでもないことに気づく。つまり俺は空気読めないブラックジョークを発したのだが、本来俺が一緒に話したいような方々は上記文言を見て即座にブラウザバックするだろう。し、「おお!そうだよな!ポリコレは"行きすぎてる"よな!」みたいな人はこれから俺は全然そんな考えじゃないことを伝えるのでお怒りになること必至だ。

じゃあもうこのブログを読んでくれる人は誰もいなくなってしまい、最近身バレしたから俺の友人が一人読むだけになるだろう。ただそれでも違う意見を受け入れようとする土壌を持つ人、分断以外の選択肢を持つ人ならばなんとかここまでたどり着いてくれてると思う。だからそんなみんなと仲良くなりたい。もちろんそうじゃない人とも仲良くなりたいが。

 

じゃあ結局なぜ「ポリコレ」を忌み嫌ってるかというともう世間的に馬鹿にされる言葉としての認識がついてしまったからです。「ポリティカリー・コレクト」という元語すら知らずにポリコレと発する人々は必ず枕詞に「過剰」とつけます。残念なことにこの語は「フェミニズム」や「ビーガン」のように本来的な語の意味から少しそれ、何かを揶揄する言葉として定着してしまった。だからあんま好きじゃない。「ポリティカリー・コレクト」的な考え方は全然嫌いじゃない。

 

前提がすごく長くなってしまいましたがそれは今作がまさに「過剰なポリコレ」として槍玉に挙げられがちな作品だからです。少しでも感想を調べてみればサジェストが醜くなることこの上ない。

ストレンジ・ワールドは登場するキャラの特質や特性が「過剰に配慮」されたものとして捉えられる傾向にあります。2026年に生きてる俺はもはや見ていてなんとも思わなかったのですが、(そもそもの評判を知ってたからという前提もある)まあ違和感に思う人はいっぱいいたのでしょう。実際、感想調べてみたらそんな感じのことを言ってる人はいっぱいいた。(でも得てして中身が薄いか分量が少ないので真に言わんとしていることは微妙にわからなかった。)多分、心理的嫌悪感の存在じゃないの?ぶっちゃけ。と思う。これって言語化しにくいので。

 

思わんとしてることは多いが後半に書くとして今作にはただでさえの前提に加え絶妙にややこしいことがある。「そんなでもない」ってことだ。別に擁護してえって思うほどは面白くない。でもつまんなくもない。ここが本当にややこしい。今作が仮にめちゃくちゃ面白くて世界がひっくり返るってほどだったら議論はもっと盛り上がるんですよ。ポリコレがどうの言ってる人にも「まずみれば?」と言えるし。そして仮に今作がめちゃくちゃつまらなかったら「怒れる」んですよね。経営陣に。でも「そんなでもなかった」。おっそうか。

ディズニーの贈る探検物はこうなる運命なのか。『アトランティス』や『トレジャー・プラネット』と全く同じレベル感の感情になりました。(後者はディズニー好きから異常に褒められてるが俺はそんなでもないと思ってる。)

 

前戯が長すぎた。とっくに舞台は整ってるので続きは後半で考えたい。話に関してはかなりそんなでもなかったとはいえ、全然面白くはあったのでさらっとまとめることになりそうだ。

 

ネタバレあり

 

アバロニアは果てしない山脈に囲まれた地である。冒険家のイェーガー・クレイド(デニス・クエイド)とその息子、サーチャー(ジェイク・ジレンホール)は新たな世界を探索するため冒険していた。山脈を越えようとした時、サーチャーはエネルギーを放つ緑色の植物、パンドを発見。パンドはエネルギー不足に役立つかもしれないとのことから植物を持って帰ろうとするサーチャーに対してイェーガーは探検を続けようと反対。イェーガーは一人探検を続けることを決め、サーチャーは探検隊の仲間と帰る。25年後、サーチャーの持ち帰ったパンドはアバロニアのエネルギー源となっていた。彼は妻のメリディアンと共に農場を営んでおり、息子イーサン(ジャブーキー・ヤング=ホワイト)と幸せに暮らしていた。しかし、ある夜、大統領のカリスト・マル(ルーシー・リュー)がサーチャーの元にやってきてパンドがエネルギーを失いつつあることを知らせる。原因究明のため彼らはパンドの根を調査しに向かう。

 

もちろん探検先でイェーガーと再会し、親子3代のドラマが始まる。全体としての設定はいい。一人でキャラが立ちまくってる冒険ジジイ、イェーガー。息子のサーチャーはイェーガーの反発するように農家へ。息子イーサンにも農家をして欲しく思い、父イェーガーのようにならないでほしいと恐怖する。しかし、それによってしていることは自信がイェーガーに冒険家の道を押し付けられていたことと一緒だ。

サーチャーとイェーガーが仲直りできるか。サーチャーのイーサンへの態度の変化。この辺がメイン軸となるドラマ。ここがうまく対応してたらよかったんですが、若干下手やったね。全部セリフで説明してしまうのが勿体無い。ちゃんとした感想文ならほぼ全てのものに載ってるんですが中盤、3人がカードゲームをやるシーンでゲーム内容と映画自体のストーリーをダブらせてわかりやすくテーマを語るんですが、この手法は下手くそやろ。明言しすぎなんですよね。セリフが語りすぎてる。サーチャーとイェーガーが一緒にビール飲むシーンとかみたいなのはよかった。映像で語らないかんよ。映画だし。

ただ材料がいいのは事実。もっと親子3代の絡みを見たかったなあ。

 

あと肝心の異世界。私は異世界に全然興奮しないタチなのですがデザインはいいね!と思いました。異世界に必要なものは二種。この世ならざる見た目と襲いかかってくる恐怖です。前半はクリアしてたかな。一応この異世界にはテーマがあって、それが後半の種明かしになるんですがそれを差し引いても奇妙な見た目はよかった。見た人全員言ってるがまあスプラットも良かった。人間的すぎるきらいはあるものの。一方危険性は皆無に等しい。子供向けアニメとはいえどもワクワクって恐怖の裏返しでもあるのでもっと頑張って欲しかった。別に誰かが死ぬ必要はないが、死ぬかも?とは思わせてほしい。

 

全然関係ないんだけど主人公一家の目が怖い。これ誰かわかってくれない?なんでなんだろう。大統領の目は怖くないんすよ。ディズニー映画見てて目が怖いと思ったのとか初めてなので違和感を持ってる。目が怖いってのは目線とか見つめとかじゃないんですよ。目の造形が怖い。異様にクリクリしてる感じがする。このせいで話があんま入ってこなかったところもある。

 

ラストの選択はもっと重くて良かったな。パンドを手放すという決心は今までの自分の功績を手放すということに他ならないわけで、だからもっと葛藤が欲しかった。というかここの手放しはもっとしっかりとイーサンを自分から解放させることと対応させるべき。イーサンがZ世代らしく控えめなのでもっとがっつりサーチャーとぶつかっても良かったんちゃう?1時間40分という短い上映時間がそうさせたのかは知らんが全体的にあまりにも淡々としてて消化不良だわさ。ここまで書いた感想に関する内容、全てあと20分くらい使ってじっくり描いたらもっと面白くなったことでしょう。もっとアバロニアでみんながどう暮らしてるかとかも知りたかった。

 

探検ものとしてやっぱディズニーだと限界があることがよくわかった。全然こっちとしてはドラえもんとかで探検してくるんで会心の出来になるまでは得意なとこに力入れてほしい。

 

 

ポリコレ論争

というわけで本題です。いや、本来なら内容への感想が本題になろうところをね。仕方ないです。だってみんながその話ばっかするから。

今作、このブログだけを読んでて、映画見てない人なら頭の中にどんな絵を思い浮かべたかわかりませんがおそらく実物とは違う可能性がある。というのもイーサンは黒人でゲイ、主人公はおそらく白人?だが奥さんは黒人で、この感想文に書いてすらないペットの犬は身体的に足が1本ないという障害を持っている。

結論言うよ?「だからどしたん。」2026の時代だからか否かはわかんないが、別に黒人のキャラが出てて性的指向がマイノリティのキャラが出てても思うことはない。普通ですからね。映画いっぱい見てるからかもしれんが。そして犬に足が1本ないことには気づきすらしなかった。観察眼が薄い。結局、俺個人としては別に"過剰配慮"ともなんとも思わなかった。公開当時に見てないからってこともあるかもですが。

そんな気になったのかな。議論が盛り上がってるってことはみなさん気になったのでしょう。でもこれって完全新作だし、配慮もクソもなくねって思ってしまう。別に新作だからどうのは本来的なポリティカリー・コレクト関連からは必ずしも正しい論にならないのですが。

 

個人的に気になったとこは一つだけ。イェーガーがイーサンがゲイだってことに無反応だったってことですね。あそこは25年間も外界にいた空気読めなさそうなじいちゃんが孫の性的指向に理解があるのはちょっと違和感あった。『ザ・ボーイズ』のソルジャー・ボーイみたいなもんで前時代系男子だと思ってたので。というか、イェーガー声優デニス・クエイドは『ザ・ボーイス』のヒューイ役の父だ。そしてMAGAのイメージ。現実のデニスは絶対に理解ない気がする(偏見)。ただこの映画を見てるゲイ当事者の方からすればそんなかったるい描写わざわざ映画の中で見たくないってのもあるのかも。ならあんまり強く言うこともしない。

 

なんだかゲイであることや黒人であること、もっと言えばそのほかの映画のアジア人であることや身体に障害があること。それらに意味がないとダメってのは考え方としてどーよ。これが100歩譲ってまだ奴隷制ゴリゴリのアメリカの話ならそりゃおかしいやろとなるがこの世界のバックグラウンドはわからん。この意味がないからゲイ描写はいらんとか言ってる方々の考え方ってちょっと「普通」の押し付けな感じがする。彼らの脳内では白人で女性にデレデレする男が普通なのかもしれないし、そうじゃないと違和感を感じるのかもしれないですが、現実はそうじゃないんよ。色んな人がいるのが現実なんで。

 

 

最近も黒人アリエルのアニメシリーズがディズニープラスで配信されて話題になってましたね。見た目という点に関して、よくおこなわれる批判が「元のキャラではなく、オリジナルキャラで"ポリコレ"をやるべき」というものだ。大概の場合、リベ系からは「いや、まさにストレンジ・ワールドがオリ作ですけど?ポジション・トークですやん」と言った反論がかまされるし、実際にそれはそうだと思う。だけど、みんなの大好きなキャラが"無理やり"マイノリティにされた〜!みたいなことについては真剣に考えてみたいと思う。

 

 

キャラのルーツ

この話題をわざわざ上げる理由として、クソオタクとしてはやっぱキャラのルーツ的な部分に関する変更は気になるからです。とは言いつつも俺の守備範囲内で気になる変更はほぼゼロに等しい。一応手持ちのカードとしては『リトル・マーメイド(2023)』にて、アリエルの兄弟が全員有色人種になっていたというものがある。イメージするルーツ的には「トリトンは妻のことを愛しており、だから姉妹全員にAから始まる名前をつけた」というものだ。人種が違うってことはめちゃくちゃ浮気してますやん!というカードだ。だが、別にトリトンのことはそんな好きじゃないので奴が浮気者であろうとガチでどうでもいい。もちろん、この理論は「俺が気にいるからいい、それ以外はよせ」すぎる横暴的結果論であり、だからこそ、あえて自分の好きなキャラが変更された際のことを考える。

 

ってか、さっきの横暴的結果論に関しては支持者が多い現代なのが怖い。戦争論とかはまさにそうで、戦争した方がいいって言ってるお前は徴兵されて死にうるけどいいの?としか思えん。たとえば、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』ではサノスの宇宙人口の半分を消す論について「サノスは正しかった」論者が現れた。この映画はみんなの大好きなヒーローが死んじゃった!とわからせることにより、消えてたのは自分に関係ある人かもしれない=そうじゃないかもしれない的に横暴的結果論を打ち消すものなのでガチでこの映画見て何も学ばなかったんだと思う。結果論を愛する人間は基本的にその結果が悪い形で自分に向かってきた時のことを考える気はゼロだ。誰しもに悪しき結果が訪れる可能性がある。だからみんな政府を作ろうねってのがホッブズたちの自然状態に関する議論だ(超大雑把)。昔の人はすごい。

 

閑話休題すぎるが、じゃあたとえば、俺の大好きなプーさんがアメリカ製のクマのぬいぐるみになったらどうだろう。クリストファー・ロビンが中東人になったら?正直嫌かも…。ただ、俺のプー愛はイギリス的アイデンティへの愛だったかっていうとそうではない気もする。だってアメリカギャグ的要素の多い『くまのプーさん2011』が好きだからね。じゃああんま嫌でもないかもな。また、別のプーとして捉え直すだけだわ。実際、A・A・ミルン原作のプーシリーズは全然ディズニー以外からも映像化されており、キャラデザとかはもちろん違う。が、別にわざわざそれを探し出して怒ろうとも思わん。これはルーツの話とブレたな。

 

やっぱキャラの核的な部分を崩すのはいかんかなという決着点はある。アリエルが黒人だろうが、クリロビが中東人だろうがこっちとしてはいい。でもアリエルの歌声がよくなかったり、好奇心旺盛でなくなってたらダメだ。クリロビの想像力がゼロだったらダメだ。たどり着いた答えを見つけた。このルーツ変更の話はポリコレとはあんまり関係ねえわ。むしろ、『ドラえもん』シリーズにおける『Stand by ME ドラえもん』叩きに近い、キャラ愛がない人が作った作品への話だ。

 

一方でディズニーは小手先の多様性表象をしがちという怠さもある。オタッキーな人間なら知ってると思うがディズニーはネトウヨからは「ポリコレ」と叩かれ、リベラル左翼からは「小手先表象に加えて表現規制」と叩かれている。俺も君の味方ではない。ディズニーは八方塞がりっすね。売れそうだからとりあえずしといたろ…!的な動きはどんどん企業の首を絞めますよ。爆散しちまえ。

 

 

『ブゴニア』の感想にも書いたが「ポリコレ」派閥(もはや誰のことかはわからんが多様性に反対する人とでも)とリベラル派閥が集まった時に各々が各々の正論をぶつけ合ってるだけではもはや解決しない。どちらもに「もしかしたらこうなのではないか?」と考える力やそれがわからん!としても「わからないから聞かせて」という謙虚さが必要なのはいうまでもってことでしょう。それができたら苦労せんのよという話ではあるが楽な道はないのでね。正しい道がいつも楽だとは限らないのです。これはポカホンタスからの引用なので、ポカホンタス記事に書けばよかった。

 

 

とまあ色々言いつつもディズニーは売り上げのためなら何でもするバカ。そして政権にぺこぺこするのが仕事なので、しばらくは「ポリコレ」を見ることもできないだろう。実際、『ムーン・ガール』のあるエピソード(LGBT関連エピ)は削除され、『星繋ぎのエリオ』は表現規制を喰らった。加えて売れるからと置きにいって続編とリメイクを量産してるうちにハリウッドでは真剣に今後の社会と表現について考えています。ワーナー買収予定のMAGAパラマウントでさえも『サウスパーク』が頑張ってる。今後ディズニーがアニメ映画の王として復活するためには、そろそろお金と立場以外のことを考えだしてもいい時期じゃないですか?

各子会社、ピクサー、マーベル、スカイウォーカー、FOXも頑張ってね。『ビーバー』はとりあえず見に行きます。

【感想】『ポカホンタス』/「触れづらい」から触れないじゃダメだよね。

タイトル:ポカホンタス

  監督:マイク・ガブリエル

     エリック・ゴールドバーグ

  形態:映画

既か未か:既

 

『ポカホンタス』みた

 

触れづらいディズニー作品ランキングでトップを張る本作。日本では「ポカホンタス」という名称が結構異なる文脈で馬鹿にされてたりするのは悲しいね。そこには今回は触れない。

初めて見たのはいつのことか覚えてませんがあんまパッとしない印象だった気がする。だから特段好きってわけでもないんですがヴィラン、ジョン・ラトクリフ総督は好きな感じ。後述するであろうスミス隊長のセリフも割と有名よね。

 

そんなのほほんとしたイメージを持ってたわけですが、本国アメリカだと大炎上案件らしい。しっかり生後とってるわけではないので間違ってたら要訂正なんですが、どうやら史実ポカホンタスの過酷な物語を本作ではラブという抽象概念によって包み込んでしまったことや時代考証の足りなさ等が影響してるっぽい。もちろん帝国主義時代のゴールドラッシュには諸説あるものの現地人の虐殺の可能性はある。特に前者はディズニー恒例のアメリカ的土着物語解釈な訳で『ヘラクレス』や『モアナと伝説の海』などところどころでお叱りを受けてる。

ここへの反応には個人スタンスありますが現地の方々や実際にルーツを持ってる人が文句言うことに対して「ウルセェ」ってのはあまりに横暴ではないでしょうかね。単純な対象化は決してすべきではないですが、仮にアメリカさんがWW2のアニメ映画を作って原爆落とす前の広島で日本の少女が米軍兵とラブに落ちてたら「適当こいてんじゃねえ」と思うこと必至。結局当事者の立場に立たねばわからないことは絶対あるのでね。

 

まあなので立場的にどこを標榜するわけではありませんがそういう問題を抱えた作品として『ポカホンタス』を再見したので何か見えてくるものがあるでしょう。

 

17世紀初頭のイギリス。ヴァージニア社はまだみぬ新天地の金の山を求めて航海へと旅立つ。提督のジョン・ラトクリフ(デヴィッド・オグデン・スティアーズ)を筆頭とする一団にはジョン・スミス青年(メル・ギブソン)が同行していた。一方、目的地のアメリカでは先住民のポウハタン族が暮らしており、中でも村長の娘ポカホンタス(アイリーン・ベダード)は大自然を自由に駆け回って暮らしていた。ポカホンタスは村の英雄ココアム(ジェームス・アパウマット・ホール)からプロポーズされるも気が進まず。そんな中、上陸したイギリス人に興味を持ちポカホンタスはスミスと出会う。

 

あらすじでさえどっち目線で描くか難しかった。というのも本作は結構スミスとポカの両人の目線が色濃く進んでいく。プリンセス目線だけではないのだ。これはディズニープリンセスものとしては結構珍しく、他に例を挙げると主人公がプリンセスではない『アラジン』と主人公が大半の間寝てる『眠れる森の美女』くらいだろう。

オープニングがすごくよくて、これはイギリス人の新天地へのワクワクを描いてて素直に心が躍るんだが、そこに不可視化されてる植民地主義への不審が頭を掠める。この映画こんなんばっか。素直に楽しみたいけど、スミスかっけえ…って思うたびに白人バンザイをやってるような気になってしまう。能天気な方々は「そんな細かいこと気にすんなよ!」「現実と区別して素直に楽しめよ!」と言ってくれるかもしれんが、そういうことから距離をとって考えないようにするのは黙認による加担になってしまうと思う。第一、俺はもう不倫とかした俳優や声優をそういうことをしたやつとしかみれない。そこを切り離した楽しみ方もちょっとはするが同時に「僕の恋人はこの国さとか言ってる割にはA子と不倫したんだなあ」という思いが脳内に存在。

 

出会うポカホンタスとスミスですが当然二人の属しているのは「植民地にしようとしてる側」と「抗う側」なので二人は結ばれない運命。しかし、それでも一緒になろうとしたところをココアムにみられてしまい、スミスはココアムに攻撃される。スミスにはトーマスという目をかけてる後輩がいるんだけど、その争いを見たトーマスはスミスを救うために発砲してしまい、ココアムは死亡。スミスはトーマスの身代わりとなって捕まり処刑を待つ身となる。

スミスを助けるためにポウハタン族を殲滅せんとするラトクリフ率いるイギリスチーム。一方白人を殲滅せよとポウハタン族も立ち上がる。ポカホンタスはこの争いをとめ、スミスの処刑を防げるのか。

 

二人が出会い、仲を深めていくうちにスミスはポカにリスペクトしつつも故郷イギリスの凄さを伝える。「君は知らないだろうがイギリスの建築はすごい」いわゆるマイクロアグレッションだ。これにカチンときたポカホンタスが歌うのがかの有名な「カラー・オブ・ザ・ウィンド」あんま翻訳がうまくいってない気もするが名曲だ。ただスミスとポカホンタスってお互いの知らん世界を教え合うとはいえどっちも押し付けがましいとこはある。このカップルは仮にくっついてもうまくいかなかったんじゃないだろうか。

とはいえスミスの名言は凄まじくポカの処刑に際して「こんなことになるのなら二人は出会わない方が良かった」と言った返答が「君を知らずに100年生きるくらいなら、明日死んでもいい」なのはカッコ良すぎる。カッケーー。でもねかっこいいんだけど、『ポカホンタス』という映画はスミスに花を持たせすぎだろう。スミスは卑怯なことに登場してから映画が終わるまでずっとかっこいい。そしてマイクロアグレッションの塊とはいえ、すぐに相手を立てるし、処刑にも覚悟が決まっている。それだけでなくヴィランズソングにデュエットし出すという目立ちっぷり。ココアムがかわいそうよ。ココアムってか『ポカホンタス』を原点にしといて白人が活躍しまくるのはどうなんと思わされる。

『アバター』の白人酋長感とはまたちょっと違うが、そんな空気感を感じるのは事実。洒落せえこと言うなよとか言ってる場合と違うんよ。スミスがカッコ良すぎることは本作においては間違いなくノイズだ。好きだけどね。メル・ギブソンに気を使いまくった結果だったりするのだろうか。

 

もちろん、争いを止めるのはポカホンタスなんですが、ポカのキャラがいまいち掴みづらいのもある。キャラが立ってないってわけではなく、知的好奇心旺盛だがしっかりとプライドはある。これはすごいいいところだと思うんですがどうしてもスミスが丸い分、「なんか怒ってる…」とか思われてしまいそうな感じがする。ここを端として日本でも揶揄ワードに指定されてると考えると純粋に悲しい気持ちになる。自身のルーツに誇りを持ってることは何も悪くないのにね。でもスミスとの対称性においてなんか悪目立ちしてるとこがあるのは事実。

 

他のキャラについてはなんと言ってもラトクリフ総督。今作は近年のディズニーっぽくヴィランなき物語になりそうなんだけど必死で悪いことしてくれるのが彼。ヴァージニア社全体として悪と書くとスミスも悪になってしまうため、植民地行為を否定的に描くことを若干チキった結果、彼が「俺は悪だぞ〜」と言いたいかのようにノルマ的悪をこなしてくれる。ただラトクリフがやった悪いことは停戦ムードで攻撃を続けようとしたことのみで若干の薄さがある。もち、絶対あかんことではあるけどね。ただ天下のディズニーヴィランズにしては小市民的すぎる悪事だ。やっぱヴァージニアカンパニーを悪役にした方がやりやすかったろう。

ただ本当に前半言ったかもしれないけど彼のヴィランズソングは最高だ。

 

ラストの展開は賛否あり。私自身としては否ですね。ポカがどういうふうに感情をグラデーションさせて故郷に残ることを決めたのかがまじでわからん。ココアムの死が心に残ったわけでもないっぽいし。イギリスに行くにせよ、残るにせよ説得力は必須でしたね。中途半端に史実に目配せした結果にも見えてしまう。

 

この感想書くにあたってWikiという集合知とはいえ一応、原典を参照したんですがやっぱスミスをカッコよくことはよくないのかなと思いました。あとポカホンタスというのも本名ではないので白人目線のアイコン化として複雑に感じてしまうことは事実。本名はマトアカさんだそうです。脳に刻んでおこう。

本作自体、やっぱイギリス人側の植民地主義をできるだけ不可視化しようとしてることは結構問題あるよね。海外の方の感想を見て確かにと思ったのは本作のイギリス人、ポウハタン間の痛み分けエンドがあんまというもの。ポウハタン側は支配に対抗しようとしてるわけでそこはイギリス人の攻撃と同列に見て「お互い様」として終わらせるのはよくないってこと。全体的に植民地主義的暴力を不可視化してる割には、イギリス人側が先制攻撃仕掛けたりと、制作サイドの「お手柔らかに」感が出てるのも悪印象。本当に都合悪いことには触れずに小手先で負けた感出してるというかね。

 

ディズニーとしては先住民への視線にいつかは向き合わねばならないだろう。というのもこの会社の原点、ウォルト・ディズニー自身の先住民への目線はどうも難しいものだったっぽいからだ。これは本当に詳しくないからアレですが、ウォルトはアメリカ・インディアンという題材について強めの憧れを持っていたっぽい。それがテーマパークのアニマトロニクスや『ピーター・パン』でのインディアン表象につながっている可能性は高い。でもこの目線って俺自身の感触としては相手を本気で知ろうとしてるわけじゃない感は否めないのよね。というのも前述した表象は相手文化を真剣に知ろうとしたものなのか、それとも自分の中での理解をキャラクター的に押し付けてしまってるのかってのが、いまいち後者っぽく思えてしまう。

ウォルト・ディズニー自身はもう全然、前時代の人なので功績を理解しつつも批判的な視座も持つのは大切だ。それにその視座はウォルト本人を否定することには絶対ならないはずだし。我々はこういう姿勢で生きていく。ただそれはウォルトの価値観とは違うかもね。ってだけで。そういうふうに現ディズニーが先住民と向き合えているのかどうかというとその感はあんまない。オタクらは現状、金儲けしか目前にねえもんな!フランチャイズの続編作って金儲けだ。一応社会問題にも目配せしておこう。ステレオタイプ的に役割を背負わせてた存在…ヘビだ!じゃあ爬虫類出して結びつけてみよう!とかやってる場合じゃねえから。真摯に向き合え。

 

歌など、結構好きな作品なんですが、お気軽な作品ではないのも事実。でもそれって悪いことじゃないよね。真剣に考える必要がある作品には蓋せずにじっくり向き合う。その姿勢はぶらさないでいたいもんだね。全く。

あとスミスとラトクリフのファーストネーム被ってんのが何気にめんどい。

 

【感想】『映画 ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』/機械は命令されたからやっただけで正しさや間違いを判断してくれない。

タイトル:映画 ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城

  監督:矢嶋哲生

  原作:藤子・F・不二雄

  形態:映画

既か未か:未

 

 

『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』みた。

 

 

毎年春の風物詩、ドラ、コナン、クレしん映画。クレしんシリーズはコロナ禍以降、その激戦区を避け、新たなる激戦区、夏に公開時期を移した。この3大アニメ映画について、クレしんシリーズはほぼ毎年映画館で見てる。そしてコナンもなんやかんや話題なので見に行って文句垂れたりしてる。よって一番見てないのがドラ映画です。去年の『絵世界物語』は異様に評判が良かったので流石に見に行った。それ以前は『宇宙小戦争2021』や『月面探査機』とか『宝島』とか見たな。しかし、個人的に一番好きなのは『秘密道具博物館』。いうまでもなくわさドラ世代です。

 

クレしんは原恵一時代に、コナンはこだま兼嗣時代に黄金を飛ばして、最新作が比較される傾向にあるがいうまでもなく、ドラえもんもその一種でしょう。第一、存命中の大山ドラ時代は原作者の藤子・F・不二雄が元ネタ書いてたってのもあるし。本作『新・海底鬼岩城』も元ネタは大長編ドラえもん。わさドラのリメイク、オリジナル系譜におけるリメイク作だ。そして俺はリメイク元も原作も読まずに見た。それを踏まえた感想です。さらにちなみに、映画だけだとよくわからんとこがあったので原作も買って読んだ。偉いやろ。

 

藤子・F・不二雄氏(以下F氏)は星新一ばりにSF界の貴公子なイメージがあり、その短編集は読んだことはないけど絶対面白いのでいつか読みたい。F氏とか言ってる割に俺自身は全く詳しくなく、むしろ激しいにわか。ドラえもんとキテレツとパーマンをちょろっと読んだくらいで無理やり関連作を増やすならA氏の『笑ゥせぇるすまん』のリメイクアニメは全部見た。ただ短編集とかの話をちょろっと見てる感じ、哲学的というか、全く及んではないので差し出がましいですが、私のブログで最後の方に自問しまくってる感じに似てるとこが多く、読んだら楽しいんだろうなと思う。

 

結論、面白かったです。でも文句は多めかも。ごめんなさいね。ドラファンの方がいたらなんか教えてくれると嬉しいです。

 

ネタバレあり

 

夏休みにキャンプの行き先で意見が分かれたのび太(大原めぐみ)たちはドラえもん(水田わさび)の提案で海中をキャンプすることに。秘密道具の「水中バギー(広橋涼)」と「テキオー灯」を使いながらキャンプを楽しむ一向。沈没船を発見したことをきっかけに海底人と遭遇する一向。海底国家ムー連邦に連れて行かれた彼らは、陸上人は信用できないとの理由で捕まってしまう。しかし、ムー連邦はある問題を抱えていた。それは鬼岩城から攻めてくるバトルフィッシュの存在だ。それだけでなく、鬼岩城では恐ろしいことが起きようとしていた。

 

前半は海底でキャンプを楽しむのび太たちを描き、後半でムー連邦が登場、そして本作ゲストキャラの海底人エルと出会う。

もう内容に沿って書くとかたるいことはせず、全体像から話すと、ムー連邦と相対する鬼岩城はかつて連邦と争っていたアトランティスという大国だった。戦争に際して鬼角弾を作成したアトランティス。しかし、実験に失敗してアトランティスは滅んでしまった。この時、アトランティスが存在していたのがバミューダトライアングル(現実のやつと一緒)でバミューダトライアングルにおけるバリアのおかげで鬼角弾はアトランティス内部でのみ爆発しアトランティスは滅びました。しかし、アトランティス内部の人工知能ポセイドンは生き残っていた。ポセイドンは人工知能といってもかなりシステム的な存在で安全保障として鬼岩城が攻撃されたら直ちに鬼角弾を撃ち返すようにできている。だからバミューダトライアングルに刺激を与えない日々だったが、近くの海底火山が噴火しそう。噴火をポセイドンが攻撃と認知してしまったら世界中に鬼角弾が発射され世界は滅ぶ。

 

面白い設定だなあ。本当に。国敗れてAIあり、というか人間の制御下にない人工知能の怖さを見事に描いている。安全保障システムの暴走とでもいうべきテーマであり、ガチで現代予見性がすごいと思う。Wiki情報だとムーとアトランティスは冷戦時代の2大国家に見立てられているらしい。

 

とまあここまでは原作にも通ずる話なんだが、本リメイクを初めて見た時に思ったことはあまりにも詰め込み過ぎているということでした。テーマがパンッパン。「仲間での協力」「ロボの心」「ロボと正しさ」「海のゴミ問題」「安全保障システム」「信じて一歩踏み出すこと」。多いわ。海ってことでゴミ問題とかもやったれやったれって感じで入れたのかもしれないけど、後半の鬼岩城云々と有機的に繋がってなくて普通に邪魔だったと思う。ロボ一本で絞った方がまとまったんじゃないの。

 

一番残念なのがこのテーマの膨大さに押し出される形で「ワクワク」がちょっと薄かったこと。成人済みの人間が子供向け映画にワクワクなんて求めるなよと言われるかもしれんが、子供向け映画は背伸びできるようなワクワク感があって然るべきだと思うんすよね。一番は具体的知識があんま出てこなかったのがね。たとえば、『大魔境』ではスモーカーズ・フォレストという存在について精細に語って、観客をめちゃくちゃワクワクさせてくれたし(実存しないの知ってビビった)、『日本誕生』では神隠しの恐ろしさにゾクゾクした。って書くとワクワクというより知識欲に近いのかな。個人的には「バミューダ・トライアングル」でもっとびびらせてくれても良かったのになと思った。原作読んだ感じ、映画内ではバミューダ以外にもドラえもんの教えてくれるシーンが薄くなってた気がする。

 

あとテーマが多過ぎて内容が散乱してたのも気になった。会話が回収されない気持ち悪さがある。たとえば、テキオー灯の効果時間に気づかないまま、ドラの元を離れてバギーでバミューダを目指すジャイアンとスネ夫が効果が切れて死にかけるという展開があって、ジャイアンとスネ夫が生きれたのは結局エルがテキオー灯を当ててくれたという理由で回収される。しかし、その場ではエルの正体は明らかにならないので、ドラたちが駆けつけた時にはただジャイスネが生きてるだけという描写でこっちとしては「なんで?」と思うもその場で回収してくれない。布石だから仕方ないとはいえ、危ないぞ。ドラえもんは彼らの保護者的立場なんだから、「なんかわかんないけど、助かった!」が一番やばい。エンジニア的にも「原因は不明で直らない」よりも「原因は不明だが直った」の方が危険なのはいうまでもない。ドラは再現性のない安全なんだから分析して傾向と対策を打てよ。

こんな感じの謎を謎として置いておくことによって話が進んでいくので歯痒い思いはある。ガチで意味不明だったのがエルとドラえもんたちの会話。ドラが22世紀からきたロボットであることを伝えるとエルは「国のみんなには隠しておいた方がいい」と伝える。「なんで?」と聞かれてガン無視して別の話を始めるエル。まあ後から想像するに、鬼岩城のポセイドンというロボによって被害にあってるからなのかな?くらいはわかるが映画ドラえもんってそんな考察型の映画でもあるまい。

そして、それ以上に訳が分からなかったのが沈没船の存在だ。本作は沈没していたはずの船が動いている!という謎要素があるが結局この理由が明らかになることはない。多分。だから原作漫画買ったんだよ!原作曰く、バミューダ近郊に近づかれて鬼岩城に刺激されると困るから移動させたとのことだった。そうならそうと言ってよ。もう。

 

というわけでF氏のエッセンスはすごく良かったが、映画的にはいまひとつとの評価で落ち着く。本作的にはロボがどうこう散々言った通り、バギーちゃんという存在が重要となる。こいつに感情移入できるか否かが本作の評価を左右する。バギーちゃんはあらすじにもかいた「水中バギー」でコンピュータの頭脳を持つ。リメイク版の本作ではおそらくジェミニとかをモチーフとしたAIっぽい。バギーは口が悪く、ジャイアンとスネ夫が前述の通り、テキオー灯の効果切れで死にそうな時も、「人間ナンテ イバッテイテモ コウナルト ダラシナイモノダネ」と無反応。このシーン怖過ぎて良かった。

しかし、この件をしずかちゃんに庇われた結果、心について学んでいくことになる。「機械は命令されたからやっただけで、いいことと悪いことを判別することはできない」というセリフはあからさまに本作のテーマ。安全保障の人工知能ポセイドンとバギーの鏡像関係だ。

バギーちゃんはジュブナイル王道的な展開を迎えるのだが、ここで乗っていけるか否か。ほとんどの人は乗っていけると思うので楽しいと思う。私は五分でした。なんか、ここから先はバギーちゃん好きな人は見ないで欲しいんですが、しずかちゃんにだけ真実を伝えるために部屋に来るとことか、しずかちゃんのことが気になりまくるとことか、ちょっと童貞くせえなと思ってしまった。だから最後の特攻シーンも『スーパー!』とかに近いものとして見てしまった。でも原作見たら全然映画の方がマシで、原作バギーは5割マシくらいで口が悪く、その割にはしずちゃんしずちゃん言うので、毒舌が面白いと思って周りから距離を置かれまくる、大学デビューしたコミュ症に見えた。俺の周りにもいたわ。バギーちゃんが一度彼に見えてしまうと、俺にはどうも乗っていけないものがあった。

 

エルもあんま好きじゃないかな。法律の話してる時に「100年前の錆びついた法律だ!」って言ってたのはタイムリーでヒヤっとした。原作だとこのセリフだけですが、今映画だとそこに続けて「変える勇気を持たないといけない」みたいなことを言っててそれはいいの?と思った。製作陣が明確に自民支持でそう思ってるなら100歩譲っていいんだけど、これはキッズたちが見て今後の人格形成におそらく影響を与える作品なので「とりあえずポイこと言わせとこうぜ」くらいだったならもうちょっと考えて欲しいね。

エルは就活のためにサークル幹部をやってる奴のように、思いはいつもムー連邦を救うことにあり、のび太たちとはあんまり仲良くなってなさそうだ。ラストの渋さがめちゃくちゃいいな!と思ったんですが、エルのムー連邦を救うことにのび太たちはそこまで使命感を感じてないんですよね。だってさっき知り合ったばっかだし、なんなら投獄されてたからね。さらにバギーも死んだのでエルが勝利のスピーチで国民をアゲてる時ものび太一向は全く嬉しそうじゃない。バギーへの悲しみがあるだけだ。

そして極め付けはのび太達とエルの別れのシーン。海岸で潜水艇っぽい乗り物から身を乗り出すエル。砂浜でどこでもドアを背にエル達の見送りを受けるのび太達。エルは「いつか地上人と海底人が分かり合える日が来ると思う」と述べ、あろうことか自分の方が先に帰る。どこでもドアをくぐるのび太達を見送る気はない。普通に笑ってしまった。例えるなら、山手線のホームまで見送ってくれた友人が、電車が来る前に「じゃっ。行くわ。」と言って帰っていくのに近い。電車が来るまで待ってくれてもいいんじゃないの?俺と話すことはないって言うのか??このシーン、渋くて好きでした。確かにエルとのび太達はあんまり仲良くなってないもんね。ペコ達、これまでのゲストキャラとは「また会いにいく」or「2度と会えない今生の別れ」という選択をとってきたが、エルとはそんなのない。エルとのび太は多分、2度と会わないんだろう。今日知り合ったやつに「またね」って言われて「こいつとは2度と合わないんだろうな」と思う感覚だ。そしてその時、もちろん俺とそいつの目は合っていない。合ってはいてもお互いの目にお互いは写っていないのだ。

 

ポセイドンの存在を考えるとただただ規律的な安全保障システムの怖さを書くことにおいてはやっぱり流石に原作の方が上だったんだなと思わされる。上述のエルの「錆びついた法律」のセリフもただただ形骸化してしまったポセイドンを指す対比になってたのかもしれないとか思ったりして。

 

後、久々に原作ドラ読んだんですが、ドライでいいですね。映画、アニメだとドラえもん達が感情豊かでエモくなってるので(もちろん、感情自体は原作も豊か)、全く違った視点で見ることができた。思うに、ドラえもんにおける各種の怖さ(今作だと人工知能への怖さ)とかって原作がドライでサラッとしてるから読み取りやすいってことなんじゃないですかね。新ドラ映画は怖さとかが削がれてるみたいな感想をちょくちょく見るんですが、というよりは原作の冷たさ、ドライさではなかろうか。

 

こんだけ感想書くってことでだいぶ楽しめましたね。でもやっぱ今はAI最盛ということもあり、Fエッセンスをさらに深める形での話を見たかったのも事実。ドラえもんには期待できることがいっぱいです。いつかスピンオフ的な感じでいいので本気のドラが見たい。『秘密道具博物館』の秘密道具バトルが楽しかったのでそういうのが見たい。来年も見に行きます。素直に楽しみ。

 

 

【感想】『刃牙道』1~13話(アニメ)/武蔵vsグラップラー。シリーズ自体に懐疑的に問い直しを行う良作。

タイトル:刃牙道

  原作:板垣恵介

  監督:平野俊貴

  形態:配信アニメ

既か未か:未

 

『刃牙道』1~13話みた。

 

人気長寿漫画シリーズ『刃牙』の宮本武蔵編。日本三代グダグタ長寿漫画「カイジ」「ジョジョ」「刃牙」のうちの一つ。(ジョジョ好きな人に言ったら怒られそうだが最新までちょこちょこ読んでるので許してほしい。)

 

そもそも刃牙シリーズとは、地上最強を目指す男どもの物語で主人公・範馬刃牙はそんな考えの元、父親である勇次郎にほぼネグレクトを受けていた。色々あって母を殺した勇次郎より強くなることを目標に刃牙が戦い続ける話だ。

そして勇次郎との決着は前シーズン『範馬刃牙』で終わった。アニメ的にも締まりがいいのでこの『刃牙道』はアニメ化しないと思ってた。

カイジ、ジョジョが一応やることがあるのに比べ刃牙道からはもう完全に蛇足でしかない。蛇足でも面白かったらそれでいいのだが刃牙は回を隔てることに面白く無くなっていってるとの声が有力。本作も現代に復活した宮本武蔵と戦うという目的がよくわからん始末。

 

そんな『刃牙道』ですが、俺は結構好きです。詳しくは14話以降が配信されたタイミングで言うと思うが、ただただ強い武蔵と戦う「だけ」にはなってないところが好き。底辺YouTuberのように「原人!復活させてみた!!」だけだったピクル編に比べて、武蔵を復活させることによる不都合、現代と戦国のギャップを描いてたのが好印象。

あと、迷展開と言われている本部の活躍も楽しくて良かった。これも詳しくは後々語ろう。

 

 

ネタバレあり

 

 

範馬刃牙(島崎信長)範馬勇次郎(大塚明夫)の"地上最強の親子喧嘩"を経てグラップラーたちは退屈していた。どのような状況でも欠伸を噛み殺す毎日。そんな中、世界一の格闘マニアである徳川光成(辻親八)が所有する東京スカイツリーの地下深くの研究所では禁忌の実験が行われていた。それは伝説の剣豪、宮本武蔵(内田直哉)の亡骸からクローンを作り出し復活させる研究だった。武蔵の復活を直感的に悟るグラップラー達。時代を超えた最強を決める異時格闘技が始まる。

 

現代に復活した宮本武蔵。武蔵は現代に興味を持ちつつも、そんな武蔵に興味を持ってやまないグラップラー達と勝負していく。アニメ的な話を言うと作画含め、武蔵の声優内田直哉も良かったし満足。と言うわけで展開とかの不満が大きなものになるがこれは原作の問題です。聞いてるか?板垣。

13話までの内容はジャックvs武蔵まで。グラップラーの欠伸→武蔵復活の流れを3話くらいかけて行い、そこからは武蔵のvs刃牙、vs独歩、vs烈、vs渋川、vs勇次郎という流れ。この間に本部がいろいろちょっかいかけたりする。

最初の展開についてだが、長い。武蔵が復活してからは純粋に楽しい時間なので武蔵復活までに異様に理屈をこねくり回したりするところが腹たつ。そして徳川のじっちゃんは倫理的問題をクリアする気はゼロなのでこの話し合い自体が無駄という不毛。あくびを抑えるために花山が勇次郎と戦ったりするが大した盛り上がりもないまま序盤はすぎる。序盤を我慢さえすれば楽しくなるので頑張って見た。板垣の理屈を異様にこねくり回して結果、言ってることが矛盾する感じは絶対に悪癖ですよ(強さとはのくだりとか)。この論が回り続ける感じは実際にプレイヤーとして考えたり喋りまくってるうちは楽しいが側から見たら面白さはかなり薄い。『マトリックス:レザレクションズ』でマトリックスの続編を作る意味についてさんざ会議していたが、その結果見つけた「意味」を教えてほしいわけで道中はそんなにもいらんよ…って思ったのに似てる。

 

 

本『刃牙道』ではこれまでの刃牙シリーズから明確に新しい道を模索しているっぽくてそこが好み。例えば、キャラのバランス調整や強さへの問い直しだ。

 

バランス調整に関して、これまでは「勇次郎最強!次が刃牙!」みたいな感じに加え、登場した新キャラにただ旧キャラがボコボコにされるだけという本当にインフレ漫画でしかなかった。そしてそれに逆張ったアライJr編は奇跡が起きるレベルのクソだった。あちらを立てれば…ではないが刃牙シリーズは本当にどっちかしか立てることができないのかってレベルでバランス調整が下手クソ。そして常に立てられ続けたのが刃牙だった。主人公の戦いが一番つまらない漫画も珍しい。

一方で、今作ではいきなり、大ボス武蔵vs刃牙をやるのがいい。また、武蔵はこれまで護られていたキャラ達を徹底的に揺り動かしながらも、一応グラップラー側にも花を持たせるなど塩梅が上手とはいえないものの頑張ってる感がある。ただただ強かっただけのピクルと大きな違いだ。

そしてバランス調整として本部が活躍し出す。本部は初登場はセリフのフォントが怖く、野良の最強を感じさせていたキャラだが、最強トーナメント戦で1回戦負け。しかも、武術知識保有者としては力士はまわしをつかむために小指が強いという当たり前情報を見落として、力士相手に小指を取って負けるという恥ずかしすぎる負けを見せた。本部は一応このあと最強死刑囚相手に善戦したりはするんだが、本作で垢抜け。なんでもありの古流柔術というキャラ性を引っ張り上げて活躍させたのは妙な感動がある。読者が本部を噛ませとして舐めていたことを表現するように徳川のじっちゃんは本部を舐めまくる。このメタ視点も良かった。

 

強さの問い直しはこれはほぼ毎回やってるが勇次郎が強すぎるせいで「強さ=我を通す力」、「戦いには純度が必須」で固定されかけていたが、勇次郎に渡り合えて、会話も対等にできるキャラとしての武蔵の登場により、この論に新しい道が見え始める。ピクルですら勇次郎と戦わなかったことを思い返すに、バランス調整の話に戻るが、勇次郎という聖域をちょっとずつ崩そうとしていたことが伺える。

 

 

初戦が刃牙戦なのが本当にいいところだ。刃牙の「負け」を本当に久々に見た。リアルに柳に負けて以来じゃないかな。童貞を卒業してからの初負けだ。勝負自体はそんなに面白くもなかったが、要所要所は良く、武蔵の「刃牙、お前を容赦さん」のシーンが好き。もっと引きでじっくり見せて欲しかった。

 

次戦がvs独歩。「愚地独歩です…。(ドヤ)」からの「なんだァ?てめェ…」は有名すぎるが何度見ても笑ってしまう。武蔵の前に現れた独歩は名乗る前に徳川のじっちゃんからいつものあれを見たいとせがまれる。それこそ、名乗りよりも自己紹介になると。独歩も満更でもなさそうに了承し、ブロック割やビール瓶斬りを見せる。そしてハイキックで木片を真っ二つに。ドヤ顔の独歩に対して、武蔵は釈然とせず「武というよりは舞踊のようだな」とか言う。独歩、キレた!!

武蔵は独歩を舐めまくり、独歩くらいなら飯前だと言ってその通りに1発で伸す。そしてエア斬撃で袈裟を切る。武蔵はエア斬撃を使いまくっており、これは主要キャラが死なないための苦肉の策だ。しかし、エア斬撃はイメージ共有に過ぎず、精神的なダメージ以外は与えられない。と独歩が言い2人の戦いは武蔵が真剣を持った形で再戦に。しかし、再戦もまたもや一撃で終わり、独歩は武蔵に気を遣われさえする。完敗した独歩。「暫くは引きこもりてえ」

独歩のことは嫌いじゃないがレベル的に一歩劣ってね?って思ってたのでここでしっかり敗北したのは好感。アライJr編での醜態もこれにて浮かばれるもんだ。

 

そして衝撃の烈戦へ。これは文句なしに面白かった。ピクルvs克巳くらい好き。烈は消力の完全習得によって武蔵と戦おうとする。刀では羽は切ることが出来ないと言う郭海王。そのカットの瞬間、羽のようにひらひら舞う葉を4等分する武蔵。この絶望感がいいね。

地下闘技場にて初の完全武器解禁ルール。「烈海王敗れたりッッ」が良い。序盤の文字通り使える全てを使って攻撃していく烈。しかし、うまくいかず烈は捕縛されてしまう。武人として殺されるより屈辱なのは殺されすらしないことだ。烈の悔しさに応え、斬殺の準備を始める武蔵。「刀剣の一太刀に…回転って見せい!!」ここで消力本番を見せる烈。しかし、正中線から血が出る。郭海王は「消力敗れたりッッ」と確信するも、烈と武蔵は気づいていた。本来仕留められていたはずの斬撃を朝での傷で済ませた烈に。「今一度 一太刀を」求める烈。烈を切り殺す武蔵。烈海王死亡。衝撃の展開。

烈は死んだが今頃異世界でよろしくやっているだろう。烈は考えてみれば割と負けたこともあったが、格のあるキャラだったので、死亡は衝撃。死刑囚編の5人は刃牙>花山、烈>渋川、独歩のイメージなので烈が死んだことによって話的にも緊張感が出てきた。割とこの展開は連載時、叩かれたらしいがキャラ多すぎるし、烈は好きだが花のある試合で死んでいけたので個人的にはセーフ。

 

渋川は割愛。勇次郎戦も面白かったが特段言いたいこともない。無刀のくだりがわけわからんのと決着ぼかしたのは良くないと思った。合気道やってる身としては楷書→叢書→無書のロジックは面白いと思ったが実際どうなるのか見せてくれなかったからね。ってかエア斬撃こそが無刀では?

 

古流柔術の使い手・本部。本部は武蔵の出現に自分こそが刃牙や烈、勇次郎までもを「守護らねば」ならないことを理解する。最初、噛ませの雑魚キャラだと思ってた読者と同じく、その発言を内心バカにする刃牙や徳川のジジイ。でも本部と相対して行っていることの真実味を理解する。烈が死んで以降、烈を守護ることが出来なかった本部は本格的に動き始める。勇次郎に対しても自分が守護るから武蔵と戦わんほうがいいと宣告。勇次郎にはブチギレられる。その後、武蔵の無刀から文字通り、勇次郎を守護って勝負をなかったものにする本部。武蔵に立ち向かおうと意気揚々のジャック・ハンマーに対しても、先に行くなら俺を倒してからいけをやってボコボコに勝つ本部。そして次なる守護らねばならない存在がピクルであることに気づく。

13話はここまで。

 

後半への布石として武蔵が現代にうまく馴染めない様子がありありと書かれる。武だけでは成り上がれない現代にギャップを感じる武蔵。烈を殺した際は、武蔵自身は勝者にも関わらず誰も武蔵に歓声を上げる者はいなかった。それだけでなく、現代においては武の価値自体がある種、自己満足的になってしまっているのに対して、武が自己表現だけでない生業だった時代の武蔵というギャップもある。武蔵は武を通じて、のし上がり、名声を得たい訳で、それは現代グラップラーの武への向き合いとは少し違う。ここから武蔵は国盗りを始めていく。続きが楽しみだ。

 

武蔵自体のキャラデザも初めて見た時は常に目の焦点があってない感じも含め、普通に怖かったが、アニメを通じてかなり好きになった。『バキ道』以降は全体的にキャラが太くなりすぎるので諸々含めて『刃牙道』まででいいかなという気にはなる。武蔵は二天一流のポーズも見てて楽しいし、ピクルみたいな執拗に相手をイメージ化するやつも少ないし良かった。

 

 

刃牙シリーズは前述した通り、論をこねくり回し過ぎてわけわからんくなってくるのが定例。死刑囚編では「負け」の定義をこねくり回し過ぎた結果、ドリアンが精神崩壊して、柳とドイルは負けても逃げ続けた。アライJrは戦いの純度について振り回されまくった。それに比べて、武蔵の現代とのギャップというテーマはしっかり一つの軸として生きているところも『刃牙道』の良さだろう。ひとまず後半を楽しみに待ちます。

【感想】『ウッディー・ウッドペッカー サマーキャンプ』/カートゥーンは斜陽です。

タイトル:ウッディー・ウッドペッカー サマーキャンプ

  監督:ジョナサン・A・ローゼンバウム

  形態:映画

既か未か:未

 

『ウッディー・ウッドペッカー サマーキャンプ』みた。

 

正直な話、全然面白くなかったです。だからブログなんか書くつもりはなかったんですがね。ただ俺の中の哀愁が文章を組み立て始めた。じゃあ書くしかないじゃない。

ウッディー・ウッドペッカーとは、写真見れば流石に知ってる人は多いでしょう、日本ではUSJのかつてのメインキャラクター。1940年デビューのアニメキャラクター。モチーフはキツツキ。現代のちびっ子はなんか見たことある程度でしょうが、エルモ、ミニオンが覇権を握る前はお土産袋に描いてあるのは彼の絵でした。しかし、ウッディーが消えていくにつれUSJは映画のテーマパークであることをやめ、今や最盛期と言っても過言ではないほど盛り上がっている。ウッディー・ウッドペッカーは時代の遺産となってしまった。

もちろんアトラクションも無くなってしまい、今もあるのかは知らんが休憩スペースに所狭しとオブジェクトが置いてある程度だと思う。なお、アトラクション的には後釜のおさるのジョージのやつもあんま人気出てないっぽい。

ああウッディー。この悲しさよ。俺はアニメもなんも全く見たことないがそれでも一丁前に愛着はあります。今映画もウッディーになんとなく愛着があるのでいざ見てみた。ら全然面白くない。まあつまんなくはないが別に特筆すべきほどの面白さはなかったよね。で、俺は誰かの感想とか聞いたり見るの好きなので感想をググってみたら驚くほどない。ほんと、ガチで。そして数少ない感想はほとんど面白くないで埋め尽くされていた。古い映画ならともかくこの映画は2024年の公開だぞ。

Wiki曰く、続編も作るかもねと監督入ってるらしいが絶対作られないでしょう。というか多分劇場ではやらずネトフリ公開という気の抜けっぷり。ウッディーはこのままキャラとしてひっそりと死んでいくのでしょうか。純粋に悲しい。

 

ネットでウッディーとはでググってもあんま有効的な情報は出てこない。USJでもグッズは見ないし。一時期はテーマパークの顔としてプッシュされていたのに。このままじゃこの映画はもちろんウッディーというキャラクターは埋もれてしまう。だから全く微力にもならんが俺はこの映画の感想を広大なネットの海に浮かべようと思いました。

カートゥーン好きとしてただでさえ供給は少なく、業界自体が死にかけな中で、こんな直近に公開されてる映画をありがたがらずにどうするよ。ロジャラビの感想でも描いたが『トムとジェリー(2021)』は爆死し、『セサミストリート(アン・ハサウェイ主演)』は話すら消えてなくなり、『コヨーテvsアクメ』はお蔵入り騒動でわけわかんなくなってんのよ。ドリームワークスの新作は劇場公開するかわかんねえし、もう海外アニメは日本では死にかけてるわけ。サウスパークもそろそろ見れなくなるしな。

 

だから俺は書くよ!ウッディー・ウッドペッカーがいつのひかまた日の目を見ることを信じて。カートゥーンが復活することを信じて。でもポジティブなことは書けないかもね。だって映画自体はそんなに面白くなかったもの。

 

 

ネタバレあり

 

 

ウッディー・ウッドペッカー(エリック・バウザ)は愉快なキツツキ。協調性がないために森を追い出されてしまったウッディー。偶然たどり着いたキャンプ・ウーフーで協調性の証であるメダルをゲットすることにより森に帰ろうとする。しかし、キャンプは違反事項から検察官のセイウチ、ウォーリー・ウォーラス(トム・ケニー)によって閉鎖の危機へ追い込まれる。同時に一つのキャンプ場に境界線を引いた形でキャンプ・ウーフーの隣に存在するキャンプ・フーラーもウーフーに対抗心がある様子。二つのキャンプ場は勝負で決着をつけることにより負けた方を取り壊すことに。そしてその裏にはキャンプ場にある黄金の噂を聞きつけたハゲタカ、バズ・バザード(ケビン・マイケル・リチャードソン)が関与していた。

 

まずね、前提が難しいのよ。よくあるサマーキャンプもので隣り合う二つのキャンプはライバル同士。でもウッディーが参加するウーフー・キャンプはどっちかというとナード寄りで元気いっぱい、軍隊っぽいフーラーに敵う由もない。ここはわかりやすく、手垢がついたほどベタだ。問題はここから。キャンプ同士のバトルによって負けた方が取り壊されるのはわかるがこれとは関係なくそもそもウーフーは違反事項により取り壊しが決定してるのよね。この記事書くために見返してみたが改めてみても理屈はよくわからん。そんな前提を難しくせんでも、、。

 

ちなみにこれだけではなく、かねてよりこの地は黄金が隠されており、ハゲタカのバズがそれを狙ってるという内容もある。バズはフーラーに協力するものの、フーラーのボス、ゼインに詐欺を行うことにより、土地奪取の権利書を獲得していた。バズはフーラーの勝利に貢献してウーフーの土地をフーラーがゲットした瞬間、それごとあらかた奪おうという計画を立てている。

二つのキャンプはバチバチやってるが、もう言わんでもわかるくらい、黄金を発見するためには二つのキャンプが協力しなければならないというアンサーがある。つまり、予想が一切外れることのないほどベタな物語が君を待っている。

 

もう書くことないよ。内容については。カートゥーンの映画なんてこんなもんでいいでしょ感はあるかもしれないが、重要なのはウッディーのキャラクターがうまく物語と結びつくことだ。ここが難しい。ウッディーって元々結構ワルなのでキャンプを通じた成長が難しい。それどころか、キャンプ取り壊しにトドメを刺し掛けたのがウッディーの存在となってしまう。ここにスティッチとかだったら自省的に反省すんだが、別にウッディーはそんなことしない。だってそういうキャラだもの。この食い合わせの悪さよ。

ウッディー系カートゥーンサイドとしてはセイウチのウォーリーとハゲタカのバズが出ます。ウォーリーはちょっと怖いよ。見た目が。バズに関しては楽しくて良かったがやっぱウッディーとバズのやり取りはCGだとスピード感が足りない感じはする。原作見てないが。

本作はいわばソニック形式でCGと実写の合成型なんですが、予算が足りなかったのかウッディーがそこにいる感じはかなり薄い。内容的にもウッディーがそこにいる必要は皆無に等しく、純粋に子供たちのキャンプ物語として見る分からの加点はない。残念だ。でも流石に往年のキャラだけあってそこにいるだけで画面が華やかになるしちょっとおもろいという良さはある。バズとウッディーに関しては彼らがわちゃわちゃしてる、それだけで全然見れるものがあった。

もっとチリーとかいっぱい出してわちゃわちゃやる線の方が良かったんじゃないかな。

 

さっきも書いたがウッディーのキャラ性をうまく物語に結びつけることは至難の業だ。まずウッディーって異様な調子のりのイメージで調子いいやつなんよね。でもそれがガチでブイブイ言わせてるキャラならいいものの、現実世界でのウッディーは人気も含め物悲しい存在になってしまってる。『カーズ3』のマックィーンみたいな時代遅れの存在だ。哀愁を背負っている。そして仮にそんなこと気にせず調子いいやつとしてやっていこうにしても成長の幅が弱い。映画としては一本通じてウッディーに何かを学んで成長してほしいとこではあるし、実際それなりの成長はするんですがそこに葛藤がないです。ウッディーがこのままじゃやべえかもって思うシーンが欲しいのです。こっちとしては。それがキャラにドラマを生むので。

 

先日『ロジャーラビット』見て思ったこととしてはもはやウッディーを主役に据えないのもありですね。カートゥーンキャラってどうしても成長したくとも難しい。それは性格に一貫性があるからでそれこそがそのキャラをそのキャラたらしめてるからです。『ロジャーラビット』ではそんなカートゥーンキャラのロジャーに加え、主役として人間キャラのエディを置いた。エディはトラウマを抱えており、それを乗り越えるというドラマが映画に発生する。観客はエディに感情移入しながら、ロジャーのドタバタを楽しむことができる。

今作品でも名前忘れちゃったけど主人公の女の子をその子単体で映画作ってもいけるくらいにキャラを立たせて成長導線を作ればよかったんと違うですかね。ならオモウザイ活躍は全部ウッディーが担ってくれるし。ウッディーは女の子に影響を与える存在(ジュブナイルもの的だ。)として美味しい結果になったでしょう。

 

 

ウッディーは今後どのようになっていくのでしょうか。古の各スタジオ代表キャラについて考えてみると、ミッキー・マウスはご存知の通りお利口さんとなったわけです。昔は過激なキャラだったもののその性格はドナルド・ダッグに譲り、ミッキーはスタジオの顔となっていった。ワーナーの看板、バッグス・バニーは現在も皮肉屋のイメージは強い。でも顔見せの頻度は減ってるよね。スペース・ジャムの続編はコケたし。ユニバーサルの看板だったウッディーはどうなるんだろう。今のとこ、お株はミニオンに完全に取られましたね。でもミッキーみたいにその性格を落ち着かせる方向での成功は期待できないでしょう。

 

ひとまず、単体での活躍は見込めそうにないので『ロジャー・ラビット』みたいなクロスオーバー作で頭角を表すのが先決なのかな。そんな機会あるのかという問いはまた別で。USJからもいなくなってしまうんでしょうか。すごい悲しいよ。